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元禄15(1702)年12月14日(第206号)

忠臣蔵新聞

表門討入り直後の様子

一番乗りは大高源吾さん
小野寺幸右衛門さんの機転、弓の弦を切る
吉良邸に討ち入る表門隊(「誠忠義士討入姓名」)
12月14日(東京本社発)
表門隊一番乗りは大高源吾さん
 合図で長屋に2本のはしごを掛け、一番乗りは大高源吾さん(間十次郎さんも同時)、二番手は吉田沢右衛門さん、三番手は岡嶋八十衛門さんが吉良邸に乗り込みました。残りは次々と吉良邸に飛び降りました。堀部弥兵衛(76歳)さんはすごく年取っていて飛び降りることが出来なかったのか、大高源吾さんが長刀を軒にたてかけ、抱き下ろしました。原惣右衛門さんは足をくじき、神崎与五郎さんは足を滑らせて地上に落ちて腕を折りましたが、2人とも何事もなかったかのように働きました。
史料
 「右之内一番乗入大高源五、但間十次郎も一所之由、二番乗吉田沢右衛門、三番乗岡嶋八十右衛門かと存候、其外一同ニ飛下り透間少も無御坐候、堀部弥兵衛は極老故飛下かたく相見候ニ付大高源五長刀を指置軒より抱下シ申候、原惣右衛門足をくちき神崎与五郎霜解ニすへり落有之腕を突折候得共何も事とも不仕相働申候」
『波賀朝栄聞書』(伊予松山藩家臣の記録)
大石内蔵助さん、浅野内匠頭家来口上書(上の写真)を立てる
 大石内蔵助さんは玄関前に「浅野内匠頭家来口上書」を立てました。これは以前、幕府の重臣柳沢吉保さんの儒学の先生であった細井広沢さんに添削してもらった討入りの正当性を主張する口上書です。内蔵助さんの用意周到ぶりが発揮される場面です。
小野寺幸右衛門さんの機転、弓の弦を切り払う
父の十内さんが母のたんさんに手紙
 幸右衛門さんら4・5人が一度に屋根より飛び降りるや、大声で名乗ってすぐ玄関に行き、戸を蹴破って屋敷内に押し入りました。玄関の番人3人が寝ていたのが、起きてきて立ち向かって来ました。幸右衛門さんはその1人を切って落としました。
 幸右衛門さんはその後奥へ切り込み、床に弓が立てかけていたのを見て、弓の弦を切り払いました。赤穂浪士たちは「以前から吉良方には弓を習う者が多いと聞いていた」と言います。だからきっと屋敷の内外から弓を引いてくるだろうと心得ていたと言います。敵がどこから起き出してきて後ろより射てくるだろうと心得て、弦を切り離したということは簡単なことのようではあるが、その働きに赤穂浪士たちも感心したということです。
知っていても実行できない(ペーパーテスト中心の教育)
知っていることは即実行すること(真の教育)

史料

「其床に弓立ならへて有を幸右衛門奥へ切入さまに弓の絃をハらと切ハらひて通り申候よし、是ハ兼て敵の方に弓はやり習ふ者多きと聞候ゆヘ、定めて内外より弓にてふせき可申まゝ其心得すへしと各内々申合たるゆへなり、敵何方よりか起出てうしろより射らるへきと心付て絃を切はなして通りたるらんと能々心付たるとてかるき事なから其働人感し申候」
『小野寺十内が妻たんに出した手紙(2月3日付け)』

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)

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