元禄15(1702)年12月14日(第206号)
表門討入り直後の様子
一番乗りは大高源吾さん |
小野寺幸右衛門さんの機転、弓の弦を切る |
吉良邸に討ち入る表門隊(「誠忠義士討入姓名」) |
12月14日(東京本社発)
『波賀朝栄聞書』(伊予松山藩家臣の記録) |
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父の十内さんが母のたんさんに手紙 幸右衛門さんはその後奥へ切り込み、床に弓が立てかけていたのを見て、弓の弦を切り払いました。赤穂浪士たちは「以前から吉良方には弓を習う者が多いと聞いていた」と言います。だからきっと屋敷の内外から弓を引いてくるだろうと心得ていたと言います。敵がどこから起き出してきて後ろより射てくるだろうと心得て、弦を切り離したということは簡単なことのようではあるが、その働きに赤穂浪士たちも感心したということです。 知っていることは即実行すること(真の教育) 「其床に弓立ならへて有を幸右衛門奥へ切入さまに弓の絃をハらと切ハらひて通り申候よし、是ハ兼て敵の方に弓はやり習ふ者多きと聞候ゆヘ、定めて内外より弓にてふせき可申まゝ其心得すへしと各内々申合たるゆへなり、敵何方よりか起出てうしろより射らるへきと心付て絃を切はなして通りたるらんと能々心付たるとてかるき事なから其働人感し申候」 『小野寺十内が妻たんに出した手紙(2月3日付け)』 |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)