元禄15(1702)年12月14日(第207号)
討入り名場面-その12-
映画に欠かせぬ清水一角さん |
あのかっこよさはフィクション? |
奮戦する清水一角さん(昭和9年:幼年倶楽部付録) | 清水一学さんの墓(吉良町園融寺) |
12月14日(東京本社発)
一芸に秀でた人物 『江赤見聞記』には、「上野介用人、清水一学」とあります。 『大河原文書』には、「清水一学御両人様(上野介さんとその養子の義周さん)御供仕り…」とあります。 吉良上野介さんが本所に移ってから、赤穂浪士の復讐に備えて、年季奉公人には暇を出し、新しい奉公人は三河の知行地から呼び寄せたといいます。この時採用されたのが清水一学さんで、近習といい用人といい、いずれにしても上野介さんの身の回りの世話をする役に抜擢されました。 このことから、何らかの一芸に秀でていたことが考えられます。 |
上杉家の記録『大河原文書』には清水逸学(赤の傍線部)の文字が見える |
「清水一学さん、ちょっと戦って討ち死」 そして次のようなショッキングなことを書いています。「吉良上野介さんとその養子の義周さんに仕えていた須藤与一右衛門さんと鳥井利右衛門さんが討ち死にした時、ちょっと戦って討ち死にしてしまった」とあります。 |
激しく戦ったので、あっという間に討ち死にした? 新貝弥七さんと比べ無理な主張 「腹を槍にて赤穂浪士に我も我もとなで切られ、玄関上り口に切り伏せられた。後に見ると腹より槍の穂先が出てきた」 やはり当時から著名でした 吉良の円融寺の過去帳にも「元禄十五年壬午十二月十五日 実相宗禅 清水一学 清水藤兵衛弟 江戸にて死去 吉良上野介家臣、吉良家落居の砌主従同死」とあります。 |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
飯尾精著『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)
飯尾精編集『増訂赤穂義士事典』(新人物往来社)