12月14日(東京本社発)
映画や講談に出てくる小林平八郎さん
二刀流の使い手で、鬼といわれた小林平八郎を相手に戦っていた老人堀部弥兵衛は、さっとふりおろす小林の大刀をかはすはずみに、つるりとすべってころびました。あわや真っ二つという所へ斬りこんだのは弥兵衛の養子の安兵衛でした。名人の一刀は、さすがの小林もかわす間もなく、討ち取られました(『幼年倶楽部付録』より)。
また、女のような装をして打ちかけをかむり、朱鞘の大刀を提げて馳せつけたとして、無敵の剣客になっています。
本当の小林平八郎さんとはどんな人
赤穂側の史料では、「奮戦し討ち取られる」
落合与左衛門(瑤泉院さん付き用人)さんの書といわれる『江赤見聞記』には次のように記されています。「吉良上野介さんの家来である小林平八さんは、槍を引っさげて激しく戦い、上野介さんをよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られました」となっています。
史料
「一、上野介家来小林平八、鎗をひっさげ勢を振るって所々にて鎗を合せ防ぎ候得ども、あまたに打合せ候故終に討留る。」 |
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上杉家の記録『大河原文書』には小林平八郎(赤の傍線部)の文字が見える |
上杉側の史料では、「即刻首討ち取られた」
上杉家の家臣大熊弥一右衛門さんが赤穂浪士討ち入りの後、吉良邸に行って見聞した内容を12月18日付けで、米沢の大河原忠左衛門さんに送ったものが『大河原文書』です。それには次の様な記事があります。「小屋より出て戸口に来たところを捕らえられました。『上野介の居場所へ案内せよ』といわれたが、平八さんは『私は身分が低いので分かりません』と答えると、赤穂浪士たちは『身分の低いものが絹の衣類をまとうはずがない』といって、その場で首を討ち取られたそうである。だから平八郎さんの首が見当たりませんでした」
史料
「討死之覚
小林平八郎
小屋より出而御門半戸口ヘ参候処被搦取上野か居所案内せよと申候得共、平八儀下々に而存不申と申候へは、下々か絹の衣類成者かと其侭首討取られ侯由首見不申候」 |
味方には冷たく書かれ、相手方には奮戦の様が書かれる
その謎は未だ解明されず
吉良上野介さんや栗崎道祐さんの墓がある万昌院の『過去帳』には
「元禄十五年十二月十五日。即翁元心居士 吉良殿内 小林平八」とあります。 |