元禄15(1702)年12月14日(第212号)
裏門討入り直後の様子
杉野さんと三村さんが、掛矢で裏門を打ち破り乱入
磯貝十郎左衛門さんの機転、蝋燭に灯り
文治派と武断派の合体
裏門隊(「誠忠義士討入姓名」) | 磯貝十郎左衛門さん | 磯貝さんの署名 |
12月14日(東京本社発)
今風の「イケメン」で主君の覚えがめでたかった 武断派堀部安兵衛さんとは肌が合わず 討入り直前二人はやっと合流 権左衛門さんと堀部弥兵衛さんとが親しかったので、弥兵衛さんの推薦により、十郎左衛門さんは十四歳の時に浅野内匠頭さんの児小姓に取り立てられました。 十郎左衛門さんは今風の「オケメン」で、鼓の名手でしたが、内匠頭さんが鼓をあまり好まなかったので、鼓をうつのをやめて、主君の好きな書物の写本とかに励んだので、主君内匠頭さんのお覚えがよかった。仕えて十年後には150石を賜わり、物頭側用人にまで出世しました。十郎左衛門さんらは新しい文治時代の能吏家といえます。 堀部安兵衛さんら武断派は当時戦国の遺風を残している「かぶき者」と言われていました。安兵衛さんらからすると、十郎左衛門さんや片岡源五右衛門さんらは主君の側に仕えて「おべんちゃら」を言っては出世するグループと映っていました。 主君内匠頭さんが自害すると、十郎左衛門さんや源五右衛門さんらと共に田村邸へ出向き、主君の遺骸を引き取り、泉岳寺に埋葬ししました。この時、十郎左衛門さんと源五右衛門さんらは髻を切って復讐を誓いました。 忠臣蔵を考えるとき、単純に野蛮な集団討入りとだけ解釈する人もいますが、当時の世相には新しい文治派を支持する人と、と戦国の遺風を持つ荒々しい「かぶき者」(武断派)を支持する人がいました。この流れを見ないと忠臣蔵の実像は理解できないのではないでしょうか。 |
その功により吉良家の家臣は命拾いする |
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参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)