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元禄15(1702)年12月14日(第211号)

忠臣蔵新聞

時空警察「忠臣蔵」を検証(U)

ドラマかドキュメンタリーかの説明不足が混乱の源
史料は事実、だが不利な史料は抹殺(マキャベリストの手法)
上野介さんの生存が前提(結果から逆算した手法)

いずれもテレビ番組「時空警察」のタイトルより
12月14日(東京本社発)
TV番組「時空警察」についてのメールが殺到
「忠臣蔵は幕府のデッチあげ」は本当!?
 年末にあった「時空警察」についての問い合わせが年始・年末にたくさんありました。「この番組はすべて事実に基づいた歴史推理ドラマである」と一応”推理ドラマ”と断っていますが、「番組の中の資料は全て存在する」と前置きして、「全ては幕府のシナリオ」で幕府によって「忠臣蔵はデッチあげられた」とくると、反論の史料をもたない一般の視聴者はノンフィクション・ドキュメンタリーと錯覚して、ビックリするのも無理はありません。
 フィクションならば脚本家と演出家の遊びを楽しむことができますが、この切り込み方は従来の方法とは違っていたので大騒動となりました(時空警察の掲示板を参照←ここをクリック)。
 そこには(1)「史実に対する疑問について一石を投ずる面白い解釈」、(2)「過去の忠臣蔵の方が史実をねじまげたご都合主義」、(3)「影響力のあるメディアで史実に光があてられた」、(4)「自分が知っている歴史とは違い、”うそー”、”信じられない”と叫んだ」、(5)「友人は”忠臣蔵ってでっちあげらしいよ”と信じていました」、(6)「総合学習で調べたオレは今までウソを調べていたのかとショック」などの意見がありました。
 なかには遊び(ドラマ)と感じて「そうむきにならなくてもいいのではないか」と冷静な人もいましたが、大半は混乱・困惑している声でした。
TVのストーリーと問題点
実在史料を駆使した周知の、噴飯の物語
フィクションをノンフィクションと錯覚させる手法
 最初の『梶川日記』には「遺恨」という言葉はありませんでした。20年後に編集された『梶川日記』に「遺恨」が書き加えられました。後者の史料を使って、今の忠臣蔵が成立しているというのです。このことは多くの人が知っています。
 次の史料は衣装や畳替えなどの「いじめ」はなかったという場面です。これも周知の事実です。
 次の『土芥寇讎記』はあまり表に出ませんが、「男色」などを紹介しています。これも知る人は知っています。
 次の『寺坂信行筆記』は、吉良邸から泉岳寺の間に行方不明になって生存していたのは寺坂吉右衛門だっと
ということを証明する史料として使用しています。TV放送では『寺坂信行筆記』は「討入後の自分のことは一切触れていない」とナレーションしているのに、寺坂に重要な任務を負わせています。
 ストーリーの重要なポイントに「実在する史料」を使っています。浅野内匠頭は病弱でなんの根拠もなく吉良上野介に切りつけた。柳沢吉保は庶民の幕府への不満を吉良上野介に振り替え、赤穂浪士に討入をさせようとした。そのことに気がついた大石内蔵助は上野介を生き延びさせて、幕府に仕返しをしようとした。そこでは内蔵助は上野介の身代わりの首を泉岳寺に持参し、吉右衛門に上野介を助け出させた。3年後に上野介は吉右衛門の世話を受けて没したという、いままでも度々語られた「噴飯」の物語である。
 その後史料に「遺恨」という文字が加えられ、上野介が悪者になる現在の忠臣蔵が成立したというのである。
史料で問題提起→反論には史料で
自説に都合のいい史料を選択、不利な史料は抹殺
マキャベリストやヒトラー・大本営の手法
 史料に基づいて自説を発表している「忠臣蔵新聞」にも多くの反論・異論・意見が寄せられます。デジタル時代、史料による反論・異論はとてもありがたいことです。この紙面でその意見を反映しています。
 所が、史料のない意見が多く、対応に苦慮します。議論は同じ土俵の上にあがってこそ可能です。歴史の場合は史料が共通の土俵になります。
 (1)持病による「発作」的な刃傷なら、何も吉良上野介を狙うことはない。因縁があった(忠臣蔵新聞第39号
 (1)老中の決定通り「喧嘩両成敗」にしておれば、仇討ちはなかったことになります。
 上野介を治療した栗崎道有は「先刻ハ公儀より療治被仰付」「只今ハ療治被仰付之沙汰ニハ不及」と老中の喧嘩両成敗を記録しています(忠臣蔵新聞第49号)。
 (2)浅野内匠頭を尋問した多門伝八郎の記録には「遺恨」「宿意」が書かれています。
 内匠頭を尋問した多門伝八郎は「私之遺恨有之、一己之宿意ヲ以前後忘却仕可打果と存候ニ付及刃傷候」と遺恨を記録しています(忠臣蔵新聞第47号)。
 (3)大石内蔵助は「喧嘩両成敗」の立場から、吉良上野介の処分を幕府に上訴している。
 「上野介様御卒去の上にて、内匠切腹仰せ付けられ候と存じ奉り処…上野介様御卒去はこれ無きの段承知仕り候…上野介様へ御仕置を願い奉ると申し上げる儀にては、御座無く侯…家中納得仕るべく筋御立て下され候はば有り難く奉る」(上野介が死んだので内匠頭も切腹させられたと思っていた。しかし上野介は死んではいなかった。上野介を処分してくれと言っているのではない。家臣が納得するようしてほしい)と書いています
忠臣蔵新聞第94号)。
 (4)過激派の堀部安兵衛は「志(遺恨)を継ぐ」「憤りを鎮めたい」と言っています。
 「擲身命候テ亡後ニ志ヲ顕申ヨリ外ハ無之」(命を捨てる覚悟で立ち向かった主君内匠頭の恨みを晴らすことが家来の務めだ)「亡君ノ憤ヲモ休申度ノミ存念ニ御坐候」(亡君の上野介にたいする憤りを鎮めたい)と書いています(臣蔵新聞第110号)。
 (5)理論派の大高源五は吉良上野介を主君の敵だと考えています。
 「かたきを、安穏にさしおき可レ申様武士の道にあらぬ事にて候」(主君が討ち果たすことが出来なかった上野介をのうのうとさせていたのでは武士の道に反する)と書いて、主君の遺恨の相手は幕府ではなく、上野介だという認識を示しています。
 (6大石)内蔵助も大高源五も浅野内匠頭を名君とは考えていません。
 「御たんりょ(短慮)にて、時節と申、所と申、ひとかたならぬ御ふてうほう(不調法)ゆへ天下の御いき(憤)とをりふかく御しをき(仕置)に仰付けられ候」(内匠頭は短慮で、時と場所をわきまえず刃傷に及んだので処分をうけた)と書いています(忠臣蔵新聞第112号)。
現在忠臣蔵新聞は討入りの真っ最中→以後の記述は今後のテーマです

(7)『富森助衛門筆記』(大目付仙石伯耆守に自訴したときの記録)には吉良家番人に首を確認と
 「面之疵は当座之疵ニまかい不分明候得は、背之疵慥ニ相見へ候付、首ヲ十次郎ニ揚さセ候…表門之番人三人ニ見セ申候所、無疑上野介殿しるしニて御坐と申候、懐中之守袋三つ御坐候を、是も証拠ニと…」
(額の傷は今日ついた傷か、松の廊下の時の傷か分からなかったが、背中の傷ははっきりと分かった。念のために番人に見せたところ、間違いなく上野介の首であるという。懐のお守りも三つあり、これも証拠にした)
 (8)泉岳寺に預けた首は吉良家に届けられた。その時の吉良家の首受取状が残っています。この首は誰?
 「首  一つ
  紙包 一つ 
 右の通り慥に請け取り申し候、念のためこのごとく御座候、以上 
            吉良左兵衛内 
            左右田孫兵衛…」
 (9)討入直後の評定所は「徒党にあらず」と決定→幕府のシナリオならどうして将軍は悩みに悩むのか?
 討入後の12月23日、老中などの『評定所一座存寄書』が発表されました。討入りについては「徒党之志御座候はば…城領知召上げられ侯節…聊も違背仕らず侯、此度之仕方…徒党とは申し難く」(徒党の意志があれば、赤穂城を没収された時抵抗しただろうが、何も幕府に背かなかった。このことから考えて討入は徒党とはいえない)と裁定しました。将軍綱吉は悩みに悩むこと約40日間、これを覆して武士として切腹を命令をしました。幕府のシナリオどおりのデッチあげであるなら、こうしたモタモタはあり得なかったはずです。
 (10)上野介を世話していた時に、どうして姫路に行けたのか。
 1703年1月27日に、おりん(吉田忠左衛門の妻)が「せいてい」に手紙を出しています。「吉右衛門事おしづめに此元へもとり申候」とあります。内蔵助の重要な使命である上野介の世話をせずに、寺坂吉右衛門は浪士が切腹する直前に吉田忠左衛門の親戚の姫路亀山に戻っていることがわかります。
幕府が大石内蔵助らの動きを察知
幕府のシナリオでなく、周知の事実
 (1)『堀部武庸筆記』を柳沢吉保の儒学の先生細井広沢に預けています(忠臣蔵新聞第147号)。
 (2)大石内蔵助も「若年寄もご存知、見て見ぬふり」と遺言に書いています(忠臣蔵新聞第194号)。
 (3)「討入りルートの不透明さ」(忠臣蔵新聞第197号)と「引き上げルートの透明さ」の不思議
抹殺された不利な史料を整理すると
 (1)刃傷事件直後から、「遺恨」説は存在していた。
 (2)大石内蔵助は上野介の処分を幕府に上訴していた。
 (2)泉岳寺に持参した首は上野介の首である。
 (3)討入り赤穂浪士に対する処分で幕府は大モメにモメていた。
 (4)上野介の世話をしていたはずの吉右衛門は姫路に行っていた。
『葉隠』の著者山本常朝の主張-「上野介が死んでいたらどうなる」
仇討ちは早い方がいい
延び延びは内蔵助の理論
幕府の介入の余地なし
 『葉隠』の著者山本常朝は討入りの時42歳であった。佐賀藩士田代陣基が常朝の談話を筆記し始めたのが1710年からで、『葉隠』が完成したのが1716年である。常朝の証言は赤穂事件を知る上で、第1次史料となります。
 赤穂事件と同時代の常朝は『葉隠』で次のように書いています。
 「主を討せて、敵を討つ事延々なり。もしその内に吉良殿病死の時は残念千萬なり」(主君を打たれたのに、敵を討つことが延び延びになったのは落ち度である。もし吉良殿が病死したら取り返しが付かない)と大石内蔵助を批判しています。延び延びになったのは、内蔵助には内蔵助の論理があった訳で、ここに幕府の介入する余地はありません。
 「時空警察」が言うように、幕府のシナリオで、仇討ちをするのであれば、もっと早くできたはずである。70歳近い上野介が死亡することもあったはずである。
時空警察忠臣蔵は上野介が生存していたことを前提に逆推理したドラマ(作り話)
 その点から考えると、「時空警察」の手法は上野介が生存していたことを前提として、逆推理した単なるドラマ
(作り話)ということがわかる。一般の視聴者には大迷惑な番組?で、私には刺激的な番組?でした。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
和辻哲郎・古川哲史校訂『葉隠上』(岩波文庫)

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