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元禄15(1702)年12月14日(第215号)

忠臣蔵新聞

間喜兵衛さん(69歳)
1人を突き伏せる

親子3人で討ち入る
元気の秘密は気の若さか?

間 喜兵衛さん(大石神社蔵) 喜兵衛さんの署名
12月14日(東京本社発)
間 喜兵衛さん(当時69歳)とはどんな人?
親子3人で討入り
元気の若さは気の若さ?
 間 喜兵衛さんは勝手方吟味役(100石取り)です。討ち入った時は69歳ですから、堀部弥兵衛さんについで二番目の老人ということになります。この元気さはどこからくるのでしょうか。私の知っている75歳の人は、ともかく気が若い。ホームページの時代だというと直アップするし、光ファイバーが凄いというと、いち早く導入して、スライドショーを公開したいという。気の若さが元気の源だと感じました。
 ご存知のように義士47人のうち父子3人が討入りをしたのは、間家だけです。親父の気の若さに、息子2人が刺激を受けたのでしょうか。
 主君の刃傷事件の時は、喜兵衛さんと長男十次郎さんは当時赤穂にいました。初めから大石内蔵助さんと行動を共にしました。次男新六さんは中堂又助さんの家に養子に出されていましたが、急変を聞いて中堂家を飛び出し、赤穂へ帰り、それ以来父ずーっと父や兄と行動を共にしました。 
 討入には父子は表裏に別れるという申し合せがあったので、喜兵衛さんと新六さんは裏門隊に、十次郎さん表門組に所属しました。
 喜兵衛さんは吉田忠左衛門さんや小野寺十内さんと共に裏門の責任者である大石主税さん補佐しました。裏門口に本部を設けて、敵の逃亡にも備えました。 
 木像は、今城国忠氏の作品です。按摩姿で敵情を探りながら、討入りに参加した2人の子を想う親としての苦悩と主君の為にはどんな苦労にも耐えようとする姿を描いています。
 前回(忠臣蔵新聞214号)で紹介しました小野寺十内さんの手紙に、間 喜兵衛さんのことが書かれています。裏門の右の方の長屋の前へ、2人出て来ました。先に出た来た1人を十内さんが槍で一気に突き殺しました。それを片岡源五右衛門さんが見ていて、「十内殿よくやった」と誉めてくれました。これが前回の内容です。
隣家の土屋主税さんにもお礼の挨拶
喜兵衛さん、残り1人を突き伏せる
罪作りなことをしたと述懐する余裕
 それに続いて、こう書いています。
 後から出てきたのを間 喜兵衛さんが突き伏せました。
 喜兵衛さんは裏門を守って北側の裏へ回ると、隣の家の土屋主税殿の家来が垣根越しに、吉良方の侍が逃げて来ないよう守ってくれていたので、こちらからお礼を言いました。
 そうこうしている内に2人の吉良方の侍が出てきたので、二ヶ所で2人を突き伏せたのです。喜兵衛さんが突き伏せた相手は倒れる際に念仏を唱えました。それを見ていた大石瀬左衛門さんには念仏の声まで聞こえました。年をとってから人を殺すという罪をつくってしまいました。
 皆は槍を使ったので、刀には手をかけませんでした。
史料
 「跡より出たるを喜兵衛突ふせ申侯、喜兵衛は門を守り、北の方の裏へまわり、隣の土屋ちから殿の衆、垣越に屋敷内を守り居申され侯ゆえ、此方より言葉をつがい、其方を守て、出会ものを二所にて二人突ふせ申侯、一人は片岡源五衛門見て居て、十内殿遊したりと誉申侯、一人は大石瀬左衛門見て居て、其男のたふれさまに念仏申たる迄聞申侯…老人の罪つくりとや申すべき、皆々槍にての事なれば、刀には手もかけ申さず候」 

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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