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元禄15(1702)年12月14日(第216号)

忠臣蔵新聞

三村次郎左衛門さん(37歳)
貧しさでは誰にも負けない

月収:内蔵助さん625万円、三村さん11万円
給料は安いが、志は高い

三村次郎左衛門さん(大石神社蔵) 次郎左衛門さんの署名
 木像は、12月14日大槌をもって集合場所に着いた時の姿を描いています。作者は森山朝光氏です。
12月14日(東京本社発)
三村次郎左衛門さん(当時37歳)とはどんな人?
貧しさでは誰にも負けぬ(年収128万円)、内蔵助さんは年収7500万円
給料は安いが志は高い
 三村次郎左衛門さんは、討入り仲間では最も身分の低い、7石2人扶持の台所役人でした(足軽寺坂吉右衛門さんは除く)。
 1人扶持とは、1日に支給される米が5合ということです。1年にすると、5合×365日(1年)=1825合(1石8斗2升5合)になります。換算すると、約36万円となります。
次郎左衛門さんは、2人扶持なので、1石8斗2升5合(36万円)×2人扶持=72万円となります。
 1石は今に換算して20万円です。
 次郎左衛門さんは、知行地7石です。四公六民とすると、7石×40%=2石8斗が給料です。2石(40万円)+8斗(16万円)=56万円となります。
 つまり次郎左衛門さんはの年収は、7石分(56万円)+2人扶持(72万円)=128万円ということになる。月給にして10万6000円です。
 大石内蔵助さんは、年収が7500万円です。月収にして625万円です。。
 討ち入りの時(37歳)の家族は母だけでした。以前の家族は、父・母と外祖父(母の父)の4人だけ、とても貧しかった様子が分かります。
 浅野内匠頭さんが松の廊下で吉良上野介さんに切りつけた時、次郎左衛門さんは台所役人として竜の口の伝奏屋敷で働いておりました。
 3月20日の内匠頭さんの初七日には、次郎左衛門さんは泉岳寺へ行き、4月2日には赤穂に到着しました。
 4月12日に、城あけ渡しが最終的に決定しました。次郎左衛門さんは、身分の低いということで、大評定の席には加われず、雑用に追われていました。次郎左衛門さんが用事があって近づくと、他の武士は話を中断したり、書類をかくしたりしたといいます。江戸版いじめですね。本当かどうかはわかりませんが。
 そこで、次郎左衛門さんは「この大事を身分の上下では決められません。私は身分が低くても、主君の御恩は忘れてはいません」と内蔵助さんに直訴しました。ここが現代版いじめの対処法を違うところです。その義に感心した内蔵助さんは次郎左衛門さんを同志に加えました。
 討ち入りの時は、次郎左衛門さんは裏門隊に属し、大槌で裏門を打ち破って吉良邸にうちいり、泉岳寺では内蔵助さんに誉められました。
三村次郎左衛門さん、カケヤで門をどんどん破る大活躍
その勢いで吉良邸に討ち入り
 小野寺十内さんが奥さんの丹さんに送った手紙にこうあります。
 「手にカケヤを持って、三村次郎左衛門さんは3つも4つも扉を叩いて破り、皆でどっと討ち入り、直に吉良上野介殿の玄関へ切り込みました。その勢いは天魔といえでも顔を上げられないほどでした」
史料
 「此手はかけやを以、三村次郎左衛門三ツ四ツ戸びらを叩て打やぶり、どっと押込、直に上野殿隠居の玄関へ切込申侯、其勢はいかなる天魔はじゅんも、おもてを向べき様ぞなし」 
次郎左衛門さん、赤穂にいる母に手紙
「討ち入り手柄を内蔵助さんに誉められたよ」
 三村次郎左衛門さん自身も、赤穂にいる老母に手紙を書いています。
 「私事、今は、十五日のあけ方、上野介殿の裏門を一番に打ち破り、次の門も一番に破りりました。その上、ありがたいことに、上野介殿と一緒にいた者に出会ったので、これを討ち果しました。無事に泉岳寺へ引き上げたところ、内蔵助さんにに呼ばれて、非常に誉められました」
 内蔵助さんは城明渡しの時のことが気になっていたのでしょう。次郎左衛門さんからすると、雲の上のように思っていた内蔵助さんから誉められたことが特に嬉しかったのでしょう。 
史料
 「私事今十五日明方上野殿うら門一はんやふり、同次之門一はんやふり、其上仕合能上野殿一所ニ居申候者てにあい手まへつゝかな(く)千(泉)岳寺へ引取、則内蔵助御よひ被成候而殊外御ほうひニ而御座候」

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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