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元禄15(1702)年12月14日(第217号)

忠臣蔵新聞

奥田孫太夫さん(57歳)
二尺余の大太刀で奮戦

主君が二度まで刃傷、稀有の人物
安兵衛さん(32歳)と共に過激派

奥田孫太夫さん(大石神社蔵) 孫太夫さんの花押(左)署名(右)
 木像は、直真影流の達人と言われた孫太夫さんが日常長刀を用いて武技を練り、
心身の鍛練を怠りませんでした。その時の八相の構の姿を描いています(籾山三穀作)
12月14日(東京本社発)
奥田孫太夫さん(当時57歳)とはどんな人?
堀部安兵衛さん(32歳)と行動を共にできる孫太夫さん(55歳)の若さ
 奥田孫太夫さんは鳥羽城主の内藤和泉守さんに仕えていました。和泉守さんの妹が赤穂浅野家二代目の長友さんと結婚した時、奥方の付き人として浅野家にやってきました。
 1680(延宝8)年、和泉守さんが永井信濃守さんに刃傷に及びました。その結果、内藤家はお取りつぶしになってしまいました。孫太夫さんは、そのまま浅野家に残り、江戸在番の武具奉行(百五十石取り)となりました。厳しい状況にあっても、破格の待遇で再就職できたのは、人物としても、実力にしても、特に優れていたのでしょう。
 1701(元禄14)年、次に仕えて赤穂浅野家三代目の長矩さんも吉良上野介さんに刃傷に及び、お家は断絶してしまいました。孫太夫さんは、2人の主君が刃傷に及ぶという体験をした稀有の人です。
 孫太夫(55歳)さんは、堀内源左衛門道場の門人で堀部安兵衛(32歳)さんとは剣友です。そんな関係で、孫太夫さんは、安兵衛さんや高田郡兵衛さんと、常に行動を共にする過激派でした。
 大石内蔵助さんが幕府大目付荒木十左衛門さんとの公約を遵守する立場を変えない間に、郡兵衛さんが脱落してしまいました。孫太夫さんと安兵衛さんは、内蔵助さんの悠長さが同志郡兵衛さんの脱落につながったと考えるようになりました。
 ついには、内蔵助さんと離れ、江戸在住の同志と上方の原惣右衛門さんや潮田又之丞さんらだけで、吉良邸討入りを決定しました。決行する前に、公約が破棄されたので、公約遵守派の内蔵助さんが孫太夫さんらの過激派に合流することになりました。
 孫太夫さんは深川八幡町に移り、町医者をしながら吉良邸の様子を探っていました。
 討入りの時は表門隊に属しました。
奥田孫太夫さんが吉良邸に持ち込んだ刀は二尺余の大太刀
小さい長刀のようにして、持ってきて奮戦する
 討入り後、奥田孫太夫さんは細川家に預けられました。浪士の世話役の堀内伝右衛門さんは孫太夫の討入りのことを次のように書いています。
 「奥田孫太夫さんの大太刀は長さが二尺余りありました。刀の鍔は無地で鉄でできていました。手に持つ柄の部分は、切柄のようにしていました。小さな長刀のようにして、吉良邸に持参したように見えました」
史料
 「奥田孫太夫大太刀は長二尺余、無地の鉄鍔かゝり居申候、樫木の一尺六、七寸の柄にて切柄の如く致したるものに候、小長刀の心に持来被致候と相見へ候事」 

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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