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元禄15(1702)年12月14日(第218号)

忠臣蔵新聞

富森助右衛門さん(34歳)
多勢の吉良方長屋衆を防ぐ

俳号は春帆と号して文化人
討入り後、大目付仙石邸に自訴、弁舌巧み

富森助右衛門さん(大石神社蔵) 助右衛門さんの花押(左)署名(右)
木像は、春帆こと助右衛門さんが矢立の筆をぬらし、懐紙を手に句を練り認めています(円鍔勝三作)。
12月14日(東京本社発)
富森助右衛門さん(当時34歳)とはどんな人?
理論的で、弁舌巧み
 富森助右衛門さんは父助太夫さんと2代にわたって浅野家に仕えています。
 1693(元禄6)年、備中松山城主水谷出羽守さんが亡くなったので、お家が取り潰しとなりました。城請取りの大役が浅野内匠頭さんに任命されました。そのことを赤穂に知らせたのが富森助右衛門さんで、24歳の時でした。
 1701(元禄14)年3月11日、助右衛門さんは勅使一行が品川で出迎え、そして伝奏屋敷まで案内をしています。
 3月14日、刃傷事件がおこりました。助右衛門さんは、赤穂浅野家屋敷の引き渡しに立会った後、平間村へ移りました。その後、新麹町五丁目にある秋田屋権左衛門店に移り、山本長左衛門となを改め、妻子と共に過していました。
 1702(元禄15)五年、大石内蔵助さんが江戸に入る前に、以前、助右衛門さんが住んでいた平間村の借宅に入りました。内蔵助さんがここで「討入りの訓令」を書いたことで有名です。
 助右衛門さんは、遺言を数通を書いて、遺児の将来を頼んでいます。また母からは襯衣を貰って、それを白無垢の小袖をつけて討入ったといわれています。
 俳号を春帆としたり、討入り後、吉田忠左衛門さんと共に大目付仙石邸に自訴しているところから見て、助右衛門さんは、理論的で弁舌巧みと思われます。
長屋組120人を防ぐのが、勝利の鉄則
助右衛門さんの証言、「長屋の吉良方侍は外には出てきませんでした」
 大石内蔵助さんが得た情報では、吉良方の侍は総勢150人(長屋120人、屋敷30人)です。赤穂浪士の3倍です。通常では勝ち目がありません。勝つためにはどうしても、長屋組を動かないことです。
 この作戦はどうなったのでしょうか。助右衛門さんに聞いてみました。
 「屋敷の中を走り回り、必死で声をかけました。それにつられて、出てくる者もあるかと緊張していましたが、長屋の侍どもも出てきませんでした。しばらくして2〜3人が出てきました。すぐ突いて留めたことを覚えています」。つまり殆ど出てこなかったのです。
史料
 「屋敷之中打廻ひたと声をかけ出あひ候もの可有之やと心懸候へとも、長屋之侍共出合不申候、斬二三人罷出候、則突留申候と覚申候」(冨森助右衛門筆記)

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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