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元禄15(1702)年12月14日(第224号)

忠臣蔵新聞

再び忠臣蔵ブーム!?(6)
その秘密を要約(4)

安兵衛は、内蔵助と離れて討入り決意
最大のピンチを救った浅野大学処分
吉良上野介を裏切った先生から情報が漏れる

幕府の役人がした約束を遵守する内蔵助 内蔵助と安兵衛の分裂回避
12月14日(東京本社発)
堀部安兵衛は、長老派原惣右衛門と理論派大高源五を味方にする
堀部安兵衛は、大石内蔵助と離れて討ち入りを決意
忠臣蔵物語の中で、最大のピンチ
 堀部安兵衛は、江戸の雰囲気に触れ、過激派に転じた長老派の原惣右衛門や、理論派の大高源五らと相談し、幕府の公約を遵守する大石内蔵助と離れて、討ち入りを決定しました(「離候方ニ益多ト被存候」)。
 そして、討入り同士を招集するために、上方に出かけました。
 忠臣蔵物語の中で、最大のピンチです。
最大のピンチを救ったのが、幕府による浅野大学(内匠頭の弟)処分
過激派の安兵衛と公約遵守は内蔵助が討入りで手を結ぶ
 この最大のピンチ、つまり分裂の危機を救ったのが、幕府による浅野大学(内匠頭の弟)処分です。
 幕府は、浅野大学の領地を没収し、大学を広島の浅野本家にお預けという処分を発表しました(「知行召上げ候につき、安芸守本国へ引取り申すべし」)。この結果、赤穂浅野家の断絶が決定しました。
 これは、幕府が内蔵助と行った公約を破棄したことを意味します。ここで、内蔵助は、討ち入りによって再度幕府の裁きを受ける決意を固めました。
 内蔵助は、もともと、討入りには否定的だっとという説があります。私(内蔵助番記者)は、その立場をとりません。過去の歴史を見ても、幕府が決定した改易(取り潰し)を変更した例はありません。そのことを知って、尚、内蔵助は、幕府との公約を遵守する立場をとったのです。
 それは、江戸の庶民といわず、幕府の圧政(生類憐みの令による非人道政策、貨幣改鋳によるインフレ政策、強圧的改易政策)に不満を抱く多くの世論を味方にしようとしたのです。
 ただ、この段階における幕府の処分は、タイミングが好すぎます。幕府内に、何か動きがあったと言えます。これは、次号(忠臣蔵新聞225号)で検証します。
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内蔵助は、討入り同士を淘汰
同士は120人から50人に激減
しかし、脱落同士は、裏切らず
吉良上野介の先生が、上野介を裏切って情報を漏らす
 討入りが決定しましたが、新たな問題が発生しました。
 お家は断絶、主君は切腹という事態に、冷静さを失い、連判状に120人余が署名しました。しかし、1年4ヶ月経った今は、人によって状況が異なります。例えば、進藤源四郎は、内蔵助の叔母の婿ですから、義理の叔父になります。源四郎は、比較的安定した生活をしていますす。そんな地位も名誉もある源四郎さんが、「討ち入りを急いで浅野家の名誉を傷つける」と言っていますから、同志に大きな動揺がおこりました。
 同志の動揺を見た大石内蔵助は、討ち入りに向け同志を淘汰することを決心をしました。その結果、70人ほどが脱落して、最後に残ったのが50ほどになりました。内蔵助の見る目の確かさを感じます。
 討ち入り日時の情報はもたらしたのが、羽倉斎や山田宗匠です(「尚々彼方の儀は、十四日の様にちらと承り候」)。羽倉斎も山田宗匠も、吉良上野介の国学やお茶の先生です。
 吉良上野介を名君という人がいます。名君を裏切る学者や茶道家は、大罪人です。でも、羽倉斎は国学の大家荷田春満ですし、山田宗匠も江戸で有名な茶人です。有名人が裏切るほどの人物だったということです、上野介は…。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)

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