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元禄15(1702)年12月14日(第223号)

忠臣蔵新聞

再び忠臣蔵ブーム!?(5)
その秘密を要約(3)

大石内蔵助は、幕府との公約を遵守
江戸の庶民を背に、堀部安兵衛は過激派に
吉良上野介は、世論を味方に出来たか?

大石内蔵助木像 堀部安兵衛木像
12月14日(東京本社発)
大石内蔵助は、法による公平な裁きを嘆願
幕府の役人荒木十左衛門は、皆の前で、幕府に報告すると約束
内蔵助は、幕府の役人がした約束を遵守する立場を固執
 大石内蔵助は、幕府の不公平な裁きに対して、幕府から派遣された受城目付の荒木十左衛門(大目付)に、法による公平な裁きを主張しました(『大学・・・御奉公モ相勤り候様ニ奉願候』)。
 内蔵助は、三度までも、皆の前で、嘆願しました。
 受城目付の荒木十左衛門は、この嘆願にたまりかねて、皆の前で、「わかった。江戸に帰った後は、その旨報告する」と約束をしてしまいました(『委細被聞召届候、可及言上旨被仰聞候』)。
 内蔵助は、皆の前で、幕府の役人荒木十左衛門がした約束を、公約と解釈しました。そして、この公約を遵守する決意をしたのです。(忠臣蔵新聞第104号←ここをクリック)
堀部安兵衛は、刃傷事件を体験し、吉良上野介の噂を体感
不公平な裁きには不公平な裁き(暴力)を主張
 堀部安兵衛は、刃傷事件の時、浅野内匠頭の側に仕えていました。主君が腹し、お家が断然した今、安兵衛は、江戸にいて、吉良上野介の噂を肌で知る立場にありました。そんな関係で、安兵衛は、不公平な裁きには不公正な裁き(暴力)を主張しました(「擲身命候テ亡後ニ志ヲ顕申ヨリ外ハ無之」)。
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安兵衛・惣右衛門・源五を過激派に突き動かす江戸の雰囲気
赤穂浪士を支持する背景があった
(1)生類憐みの令(2)貨幣改鋳(3)大名取り潰し政策
 大石内蔵助は、堀部安兵衛が過激な行動をとって、内蔵助の予定(公約の遵守)を狂わすことを心配して、長老派の原惣右衛門と理論派の大高源五を江戸に派遣しました。
 しかし、思慮・分別のある原惣右衛門・大高源五も、江戸の異様な雰囲気に接して、過激派に転じてしまいました(『上方ニテ存候トハ違ヒ三人ノ所存尤ニ候』)。
 どうして、江戸の雰囲気が、江戸在住の安兵衛や江戸に下った原惣右衛門・大高源五を過激派につき動かしたのでしょうか。
 多くの小説家や学者・研究者が見落としているのが、この観点です。表面的な事象にとらわれて、木を見て森を見ない論と言えます。今風にいうと、世論ということです。
(1)将軍綱吉は、生類憐みの令を出しました。蚊や犬より人間の命が軽視されたのです。あの水戸黄門ですら、廃止させられなかったのです。水戸光圀が亡くなったのが、1700(元禄13)年です。生類憐みの令が廃止されたのが、綱吉が亡くなった年ですから、1709(宝永6)年です。「この印籠が目に入らぬか」と綱吉に言って欲しかった江戸の庶民の不満が、聞こえてきます。(忠臣蔵新聞第32号←ここをクリック)
(2)次に貨幣改鋳によるインフレ政策です。幕府は、それによって得た利益(出目)は500万両にのぼり、実行した高級官僚の荻原重秀は勘定奉行に出世します。この結果、貨幣価値が下落し、庶民の困窮が深まります。(忠臣蔵新聞第35号←ここをクリック)
(3)庶民だけでなく、大名も、綱吉の強権政治に恐怖心を抱いていました。それが、大名の取り潰し政策です。 
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幕府は、江戸の庶民の声に、上野介を本所に移住させる
江戸の庶民は、「これで仇討ちが出来る」と噂
上野介の親戚でも、「仇討ち」の噂
 江戸の庶民の不平・不満をうけて、幕府は、吉良上野介の屋敷を呉服橋から、隅田川外の本所に移しました。柳沢吉保が、将軍綱吉への庶民の風向きを、上野介に振り向けたという説もあります。庶民からすると、将軍綱吉・側用人吉保・高家上野介は三位一体と考えられていたからです。
 これを知った江戸の庶民は、「内匠頭の家中が存念を達する時節が来た」と噂をしました(『内匠殿衆ノ仕合存念ハ可達時節ト専取沙汰仕候』)。
 上野介の従弟婿である水野忠直(松本城主)が、親しい友人に「上野助が本所松坂町に屋敷替えを命じられた」と話しました。
 すると、お伽をしていた座頭が「それでは、幕府が内匠頭の家来に上野助を討て言っているようなものではありませんか」(『是ハ従御公儀 内匠頭家来ニ討候ヘト』)と言うと、「その通りである」(『成程其通ナリ』)と答えたと言います。
上野介は名君か?
世論は、名君に味方する
上野介は、世論に見放されていた?
 吉良上野介を名君という人がいます。本当に、名君なら、世論を味方にしているはずです。
 最近、ゴマスリ幹部から支持されていたNHKの会長が辞任しました。受信料拒否という世論の反撃を受けたからです。新会長は、辞任会長やゴマスリ幹部を顧問に据えました。しかし、任命されたばかりの3顧問は、数日後辞任しました。これも世論の反発があったからです。
 上野介が名君なら、世論が上野介に味方して、幕府の政策を非難する声が上がったことでしょう。本所移転を撤回させたでしょう。しかし、そういう声も上がらなければ、本所移転も撤回されませんでした。ということは、上野介は、世論から見放されていたということではないでしょうか。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
木像(大石神社蔵)

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