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元禄15(1702)年12月14日(第225号)

忠臣蔵新聞

再び忠臣蔵ブーム!?(7)
その秘密を要約(5)

柳沢、安兵衛の往復書簡を入手
柳沢吉保の方向転換?
それ以上の内蔵助の大胆行動

往復書簡を模写する堀部安兵衛 安兵衛が書簡を預けた細井広沢先生の墓碑
12月14日(東京本社発)
幕府は、吉良邸を本所に移転
しかし、内蔵助は、動かず
 元禄14(1701)年9月2日、幕府は、江戸の庶民の不平・不満をうけて、幕府は、吉良上野介の屋敷を呉服橋から、隅田川外の本所に移しました。柳沢吉保が、将軍綱吉への庶民の風向きを、上野介に振り向けたという説もあります。庶民からすると、将軍綱吉・側用人吉保・高家上野介は三位一体と考えられていたからです。
 これを知った江戸の庶民は、「内匠頭の家中が存念を達する時節が来た」と噂をしました。詳細は 忠臣蔵新聞第233号をご覧下さい。
柳沢吉保は、赤穂浪士の重要情報を得て、方針を転換
ついに、内蔵助は、動く
 元禄15(1702)年6月18日、堀部安兵衛は、吉良邸討ち入りの同士を募るために京都に向かいました。その少し前に安兵衛は、自分が出した手紙の写しと相手から来た手紙を『堀部武庸筆記』としてまとめ、これを細井広沢(安兵衛とは堀内道場の同門で、側用人柳沢吉保の儒臣)に預けました。
 細井広沢から見せられた『堀部武庸筆記』によって、側用人の柳沢吉保は、赤穂浪士の全ての動きを察知しました。江戸庶民は、幕府の貨幣改鋳によるインフレと生類憐みの令による非人道政策によって、幕府への不平・不満は頂点に達しています。江戸庶民は、幕府への不満のエネルギーを赤穂浪士による吉良邸討ち入りに求めています。詳細は、忠臣蔵新聞第147号をご覧下さい。
将軍綱吉の武家諸法度と、赤穂浪士の主張は一致
 武家諸法度は、将軍の代替わりに出されます。天和3(1683)年、将軍綱吉は、それまでの「弓馬に道」を「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」に改めました。これは主君に対する忠と父祖に対する孝、それに礼儀による秩序つまり文治主義を内容としたものです。
 まさに、赤穂浪士の動きは、将軍綱吉の主張そのものです。将軍綱吉の意を人一倍嗅げる側用人の柳沢吉保は、分裂直前の赤穂浪士の動きに敏感に反応しました。その意図は、庶民のエネルギーを、将軍綱吉の味方にしようとしたのです。詳細は、忠臣蔵新聞第147号をご覧下さい。
幕府は、赤穂浪士を泳がす
内蔵助は、泳がせ政策を利用し、それ以上の大胆行動
幕府はびっくり、庶民は喝采
 多くの研究者や小説家が指摘するように、討入り成功の影には、幕府の動きがあったと、私も思います。
  元禄15(1702)年12月13日、大石内蔵助は、討入り直前の手紙に、「他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。…若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。…私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか」と書いています(「若老中ニも御存知之旨ニ候…亡君之ため忠死ヲ感し道理か」)。詳細は、忠臣蔵新聞第194号をご覧下さい。
 研究者や小説家は、大石内蔵助は幕府に泳がされたという立場をとっています。ですから、吉良邸討入りは、幕府のやらせであったと言うのです。
 1701年9月に、幕府は吉良邸を本所に移します。1年後の6月、幕府は、赤穂浪士の重要な情報を得て、浅野大学の処分を決定します。このことで、分裂直前の赤穂浪士が団結し、討入りを決定します。この時間的は差は何だったのでしょうか。
 私は、大石内蔵助は、幕府の泳がせ政策を利用して、吉良邸に討ち入ったという立場です。仮に、やらせであったとしても、討入り後の幕府のあたふたする対応を見ると、大石内蔵助の行動は、幕府の予想をはるかに超えるものだったといえます。
 権力者(将軍・幕府)相手に、ただの素浪人団体が、対等に、いやそれ以上に行動したことが、柳沢吉保の意図を越えて、庶民の喝采を浴びたのです。今の時代、権力者(カリスマ会長・社長)に身を挺して、意見を言う人がいますか。家族のことを考え、保身の為に、耐え忍ぶ人々に代わって、ウサを晴らしてくれるのが、忠臣蔵ではないでしょうか。

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)

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