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元禄15(1702)年12月14日(第227号)

忠臣蔵新聞

横川勘平さん(36歳)
「お軽・勘平」のモデルは萱野三平さん

戦いながらも、火の用心に心がける

横川勘平さん(大石神社蔵) 五郎右衛門さんの花押(左)と署名(右)
木像は、本懐を遂げる日を語り合っている姿です。作者は佐藤助雄氏です。
12月14日(東京本社発)
横川勘平さんは、徒目付5両3人扶持
 主君の浅野内匠頭さんが、殿中で吉良上野介さんに対して、刃傷に及んだ時、横川勘平さんは、主君のお供をして江戸に出ていました。その後、勘平さんは、赤穂へ帰りました。
 歌舞伎で有名な「お軽・勘平」の勘平は、横川勘平ではなく、「孝ならんと欲せば忠ならず、忠ならんと欲せば孝ならず」と悩んで、切腹した萱野三平さんです。
 開城をめぐる争いの最中、城代家老の大野九郎兵衛さん父子が逐電しました。そこで、勘平さんと神崎与五郎さんは、目付として、大野九郎兵衛の家財を管理しました。
横川勘平さん、14日吉良茶会を知るはフィクション
 その後、江戸に出て、吉良邸を偵察していました。吉良邸近くで茶道の宗匠をしているお坊さんがいました。時々、吉良上野介に呼ばれていることを知った勘平さんは、このお坊さんと懇意になりました。
 12月10日、勘平さんがそのお坊さんを訪ねた時のことです。お坊さんは「14日夜、吉良邸でのお茶会の案内を頂きました。私は無筆なので、あなたに、出席の返事を書いてほしい」と、勘平さんに代筆を依頼しました。勘平さんは、代筆して返事も届けましょうと、了承しました。そのことを大石内蔵助さんに報告しました。
 14日に吉良邸で茶会のあるという情報は、大高源五さんからももたらされていました。この2つの情報により、内蔵助さんは、14日の討入りを決定しました。
 しかし、お坊さんの大切な仕事の1つが、「卒塔婆」を書くことですから、無筆なお坊さんが存在することはありません。これは、誰かが作ったフィクションです。
横川勘平さん、戦いながらも、火の用心に心がける
 玄関の戸を打ち破って切り込みましたが、番人の寝所には3人分の寝具がありましたが、吉良方の人間はいませんでした。
 裏門より切り入った者は直ちに台所口に回りました。ここには吉良方の中間が3人いて、大釜の火を焚いていました。赤穂浪士の討入り姿を見て、驚いて、蜘蛛の子を散らすように逃げてしましました。
 横川勘平さんは、大釜を焚いている薪の焼きさしを明かりとして、大床の上に駆け上がり、辺りを見ました。たくさんの吉良方の侍が、立場を放棄して逃げて、誰もいませんでした。
 勘平さんは、以前、大石内蔵助さんが言っていたことを「さっと」思い出し、持っていた焼きさしを元の大釜の下に投げ込んで、再び大床に駆け上がって行きました。
史料
「玄関の戸を打ち破りて切り込みけるに番人臥所と見えて三人の臥具あれど人は無し 裡門より切り入る者は直ちに台所ロヘ廻る 爰には中間三人大釜の火を焚きて居けるが 蜘の子を散らすごとく逃失せぬ 横川勘平其の焼さしを取りて大床の上へ欠(馳)け上り見れば あまたの者其身脱して逃行方なし 勘平兼て内蔵助申付くる事を急度思い出し 右の焼さしを釜の下へ投入れ又欠け上がる」(『赤城士話』)

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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