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元禄15(1702)年12月14日(第229号)

忠臣蔵新聞

不破数右衛門さん(33歳)
暴れん坊数右衛門さん、帰参

4〜5人をやっつけたのか、刀はササラ
討ち入り、大はたらき

不破数右衛門さん(大石神社蔵) 不破さんの討ち入り姿(左)と花押(中)と署名(右)
木像は、主君長矩の墓前、帰参の許を得ている姿です。作者は山崎秀雄氏です。
12月14日(東京本社発)
不破数右衛門さんは、馬廻・浜辺奉行で百石です
 不破数右衛門は、浅野家の浪人であった岡野治太夫さんの子でしたが、譜代家臣の不破家の養子となりました。
 数右衛門さんは、刃傷事件の数年前に、主君の浅野内匠頭長矩松さんを怒らす問題を起こしました。死骸を掘り出して試し斬りしたこと。公務をおろそかにし、同僚と仲が悪かったこと。金がない金がないと言いながら、気に入った者を集めてドンちゃん騒ぎをしたこと。以上のことにより、100日間の謹慎処分を受けました。数右衛門さんは、反省する所か、逆に、「密告した者がいるからで、密告するような卑怯者とは勝負する」と言い触らしたので、再度主君から譴責され、そこで、脱藩しました。脱藩は、当時では、死罪に値する罪です。
 刃傷事件を知った数右衛門は、赤穂城へ駈けつけたが、帰参は許されませんでした。
 1701(元禄14)年11月、大石内蔵助さんが江戸に出てきた時、礒貝十郎左衛門らの尽力で、泉岳寺の主君の墓前で、内蔵助さんと再会しました。必死に嘆願する数右衛門さんを、内蔵助さんは、その帰参を許しました。
数右衛門さん、帰参を許される名シーン
 内蔵助さんが「帰参したいなら、あの犬を殺せるか」と命じました。しかし、数右衛門さんは、「それは出来ません」ときっぱりいったので、内蔵助さんは、「昔の数右衛門なら、言われたら即実行したものを、えらく修行したものだ」と帰参を許したということです。
 これは事実かフィクションかは分かりません。
数右衛門さん、劇中劇に怒る名シーン
 数右衛門さんが浪人中のことです。中村座の芝居見物をしていました。浅野内匠頭に扮した役者が吉良上野介に扮した役者に刃傷に及ぶ場面です。吉良上野介に扮した役者の「台詞が気にいらん」と腹を立て、思わず舞台の飛び上がって、役者を頭をなぐりつけました。リアルな芝居は禁止されていましたから、これはフィクションです。
 数右衛門さんをホウフツとさせるエピソードではあります。
大高源五さん、長刀のような大太刀をもち、派手な衣装で目立っていた
 大いに働いたのは、不破数右衛門さんの働きです。勝負した相手は、吉良方の腕利きで、数右衛門さんは、数ヶ所も切りつけられました。しかし、着込みの上だったので傷もありませんでした。小手着物は、ボロボロになるほど切り裂かれていました。数右衛門さんの刀はササラのようになっていました。刀も使えるような状態でなくなり、4〜5人は切り殺したようである。吉良側で少し相手になった者もいたが、少しばかり太刀合わせしただけで、やられてしまっています」
 *ササラとは、ばらばらになって使えなくなった物・状態です。
史料
 「大いに働き申し候ところは、不破数右衛門働きにて、勝負いたし候相手形の如く手ききにて、数右衛門へも数ケ所切り付け候へども、着込みの上にて候ゆへ疵もこれなく候、小手着物は悉く切りさかれ申し候、その身の刀もささらとこそ申し候、刃は皆これなきように罷りなり、四五人も切りとめ申すつもりに御座候、そのほか少し手あい致し候へども、少しばかりの太刀合せまでに御座候」(大石内蔵助が寺井玄渓充てに送った12月19日付け討入り実況報告書)

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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