元禄15(1702)年12月14日(第230号)
岡野金右衛門さん(23歳)
十文字槍で大活躍
恋の絵図面盗りは事実?
神崎与五郎さん、歌に詠む
岡野金右衛門さん(大石神社蔵) | 岡野さんの討ち入り姿(左)とと署名(右) | |
木像は、大工棟梁の娘からして入手した絵図面を見つめている姿です。作者は山口伊之助氏です。 |
12月14日(東京本社発) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岡野金右衛門さんは、部屋住みです | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
部屋住とは、長男でまだ家を継がない間の身分とか、次男以下で家を継ぐことができない者をいいます。次男以下は、分家か他家に養子に行かない限りは、お家の家督を相続した人の援助を受けて生活をしなくてはなりません。 金右衛門さんの父は、物頭200石で、名前は岡野金右衛門包住といいます。 開城後、浅野家領の若狭野(兵庫県相生市)に家族と移り住みました。 刃傷事件(1701年)の後の11月に父の金右衛門さんが亡くなったので、九十郎さんは金右衛門を名乗り、正式に岡野金右衛門包秀となりました。一字違いなので、親子を間違える人がいます。 下記の系図を見ると、小野寺十内さんの甥が金右衛門さんと大高源五です。源五さんの弟が幸右衛門さんですが、叔父さんの小野寺十内さんの養子になっています。■は討ち入り浪士です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
金右衛門さん一族4人が討ち入り | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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金右衛門さんの恋の絵図面盗りは、本物? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1702(元禄15)年8月、金右衛門さんは、林町5丁目にある堀部安兵衛さんの借宅に同居しました。そして、吉良邸の前で米屋を開いていた前原伊助さんと神崎与五郎さんの手代として住み込みました。 そこで、近所の娘に惚れられたのを利用して、娘の伯父さんである吉良家出入りの棟梁から、吉良邸の絵図面を盗み出すことに成功しました。TVや映画では必ず演じられる名場面です。 神崎与五郎の歌に、『同志の者の恋初めとみて時雨を』と題して、次の和歌・俳句が残っています。そのことから、全くのフィクションではないという説もあります。 「神無月 しぐるる風は 越ゆるとも 同じ色なる 末の松山」 「余の星は よそ目づかひや 天の川」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
金右衛門さん、十文字槍で大活躍 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
金右衛門さんは、十文字槍をよく使うというので、手ごろなる槍を持って広い場所が担当になりました。狭い屋内の組でなく、新門という小門を担当しました。 思ったように広場に出てきた者を十文字槍で突き伏せる活躍をしました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「金右衛門ハ十文字を能遣ふ故手ころなるを以て広場にて勝負して多勢をあいしらへとて屋の内へ切て入人数ニてハなくて新門とて小門の有を守らせ置候、案の如く爰に出あふ者を突伏申候」(『小野寺十内書状』) |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)