元禄15(1702)年12月14日(第231号)
武林唯七さん(31歳)
吉良左兵衛さんを取り逃がす
武林唯七さんの祖父は中国人
粗忽な唯七さんはフィクション
武林唯七さん(大石神社蔵) | 武林さんの討ち入り姿(左)と署名(中央)と花押(右) | ||
木像は、主君の凶報を聞き、刀を持ち決意を漲らせている姿です。作者は佐々木大樹氏です。 |
12月14日(東京本社発) |
武林唯七孟隆重さんは、馬廻・十五両三人扶持です |
武林唯七さんの祖父である孟二寛さんは、中国浙江省杭州府武林の出身で、孟子の子孫でした。孟二寛さんは、文禄の役で日本軍の捕虜となり、日本に帰化してからは、出身県の武林をとって、武林治庵さんと改名しました。 武林治庵さんの子である渡辺平右衛門さんの時、赤穂浅野家に仕えました。 渡辺平右衛門さんの次男が武林唯七孟隆重さんです。 刃傷事件の時、赤穂にいた唯七さんは、最初から、討ち入りの義盟に加わりました。討ち入りについては、堀部安兵衛さんと同じ考えで、討ち入りを早期に実行する急進派です。 |
「武林唯七粗忽の使者」は、講釈師のフィクション |
九条関白家から広島浅野本家にかきつばたの花が贈られました。広島浅野本家から、赤穂浅野家にも分け前があるというので、武林唯七さんが受け取り使者に任命されました。 唯七さんは、主君の浅野長矩公より愛馬三日月という名馬を借りて出かけました。しかし、唯七さんは、隣の福岡藩黒田家を訪れました。唯七さんも黒田家の家臣も気づかぬまま、座敷に通っていきました。唯七さんは、座ってから周囲を見ると、襖の九耀の紋に気がつきました。唯七さんは、「間違えました」とも言えず、「昼の御馳走にあずかりたい」と申入れ、そこそこ食べて、黒田家を退散し、目的の広島浅野本家に入っていきました。 かきつばたの花を手にしての帰途、、半鐘の音が聞えてきました。どうやら御屋敷のある鉄砲洲のあたりから火が見えました。唯七さんは、かきつばたの花をムチにして、馬の尻をたたきながら、鉄砲洲の御屋敷に帰ってきました。 その結果、唯七さんが主君の浅野長矩公差し出したのは、花も葉もないかきつばたでした。 これを「武林唯七粗忽の使者」といいます。 |
吉良左兵衛さん、怪我した血で失神(幕府検使の報告) |
吉良左兵衛義周を尋問した幕府の検使目付の報告です。 左兵衛さんは、居間の方へ切り込んで行き、長刀で防いだが二ヶ所手傷を負いました。その時、左兵衛さんの眼に血が入って気が遠くなりました。しばらくして正気に戻ったので、父の吉良上野介さんのことが気になったのですが、最早打たれていました。 討ち入った者らは居らず、何処へ行ったかも分かりません。 左兵衛さんは額に一ヶ所2寸ばかりの傷がありました。背中にも1ヶ所6寸の傷があり、これは重傷と言っていましたが、気力は未だしっかりしていました。 |
史料 |
「検使御目付両人より之書 一 左兵衛居間之方江切入候付自身長刀ニ而防候処二ケ所手負、其節眼江血入気遠く罷成、暫時正気附上野介無心元存候内最早被打乱入之者江不申何方江立退候哉不存之旨申聞候 一 左兵衛疵額ニ一ケ所弐寸斗後ニ一ケ所六寸斗是は深キ由申候得共気力慥ニ相見申候」 |
吉良左兵衛さんと立ち会ったのは武林唯七さん(評定所での口上) |
評定所で、「吉良左兵衛さんの傷は、武林唯七がつけた」と唯七さんがその仔細を話しました。 「左兵衛さんは、長刀でかかってきました。なかなか立派な働きでした。背中の傷も逃げようとして切られた傷ではなく、私たち同志が前後左右より取り囲み、四方八方より切りつけて時の傷です」と唯七さんが話しました。 |
史料 |
「御評定所に而、左兵衛様御疵は、武林唯七に御座候由、唯七才覚申段、尤長刀を以、御懸合、賢き御働ふりに候と申段、御後の疵も逃疵にはこれ無く、前後左右より取り囲み、四方八面切立申故、御後にも疵これ有る由、唯七申し候」 |
吉良左兵衛さんと立ち会ったのは不破数衛門七さん?(赤城士話) |
若い男が長刀を持って出てきて不破数衛門さんとしばらく渡り合いました。数右衛門さんが連続的に切りかかり、隙ができたので、一太刀切りつけると、若い男は長刀を捨てて逃げていきました。若い男の捨てていった長刀を見れば、銀の金物と梧桐の紋所がありました。あの若い男こそ左兵衛さんに間違いないということで、その長刀を持ち帰りました。 『赤城士話』は、討ち入り後の赤穂浪士を預かった水野家の家臣である東条守拙さんの聞書です。 |
史料 |
「若き男長刀を持出て向ふ、数右衛門渡り合い、暫く働けるが、数右衛門透間もなく切り懸り、一太刀切付けば、長刀を捨て行方知らず逃隠る。若き者討ち捨てし長刀を見れば、銀の金物に梧桐のとふの紋所あり、さては左兵衛に紛れなしとて、其長刀を取りて帰る」 |
須藤与一右衛門さんと山吉新八郎さんが主人の吉良左兵衛さんを必死で守る(塩井家覚書) |
須藤与一右衛門さんと山吉新八郎さんは、主人の吉良左兵衛さんが大変だと知って、左兵衛さんのかばって立ちふさがり、戦いました。その結果、左兵衛さんは命には別状ありませんでした。 『塩井家覚書』は、上杉家の史料です。主君の吉良左兵衛さんの名誉を守っています。 |
「須藤与一右衛門・山吉新八事、左兵衛様へ立塞り戦ひ申故、左兵衛様御命御恙が無くと申事ニ御座候」(『塩井家覚書』) |
史料 |
事実は1つでも、4つの史料は別々の記述 武林唯七さんが、吉良左兵衛さんを負傷させ、 山吉新八郎さんらが必死で、左兵衛さんの命を防いだ |
(1)幕府の検使の報告では、吉良左兵衛さんは血が眼に入って気絶したとありますが、相手は書いていません。 (2)評定所の尋問では、武林唯七さんが左兵衛さんの額にも背中にも切りつけたとあります。 (3)赤城士話では、不破数右衛門さんが切りつけ、左兵衛さんは逃げ隠れたとあります。 (4)塩井家覚書では、須藤与一右衛門さんと山吉新八郎さんが主人の吉良左兵衛さんの命を救っています。 (3)は余りにも出来すぎています。(1)(2)(4)を総合すると、武林唯七さんが、吉良左兵衛さんを負傷させ、山吉新八郎さんらが必死で、左兵衛さんの命を防いだというのが本当ではないでしょうか。 |
参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)