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元禄15(1702)年12月14日(第233号)

忠臣蔵新聞

吉良左兵衛さん(17歳)
世が世なら、お坊ちゃま人生を

父は名門上杉家の当主綱憲さん

吉良義周さんが8歳の時の書(吉良町) 義周さん8歳の時の書の石碑と石塔(吉良町)
12月14日(東京本社発)
兄の上杉綱憲さんと、弟の吉良義周さんの華麗な運命
徳川家康 秀忠 徳川家光 綱吉 鶴姫
徳川光貞 綱教
保科正之 春子 為姫
上杉謙信 (略) 上杉定勝 綱勝 -- 綱憲 吉憲
富子 義周
吉良義定 義弥 吉良義冬 綱憲

酒井忠利 忠勝 義央 鶴子
忠吉 ━━━女 あぐり
---- -- 義周
菊子
系図(『吉良上野介を弁護する』より)。色が登場人物
 1663(寛文3)年、吉良上野介義央さんと富子(父は上杉定勝)さんとの間に、綱憲さんが生まれました。母富子さんの先祖は上杉謙信さんです。
 1664(寛文4)年、富子さんの兄である上杉綱勝さんが急死しました。そこで、綱憲(2歳)さんは、母の実家である上杉家の養子となり、上杉喜平次景倫さんとなりました。綱勝さんの妻の父(義父)が老中の保科正之さんだったので、30万石は15万石に半減されましたが、家督は継げました。
 1675(延宝3)年、上杉喜平次景倫さんは、4代将軍の徳川家綱さんの前で元服し、家綱さんの名前の「綱」の一字を与えられて、上杉綱憲さんとなりました。綱憲さんの妻為姫さんは、御三家の紀州藩主である徳川光貞さんの娘です。
 1684(貞享元)年、上杉綱憲さんと側室おようの方との間に長男の吉憲さんが生まれました。
 1686(貞享3)年、上杉綱憲さんと側室おようの方との間に次男の義周さんが生まれました。
 1689(元禄2)年、吉良上野介義央さんの跡取である三郎ちゃんがなくなったので、上杉義周(4歳)さんが吉良家の養子となって、吉良左兵衛義周さんとなりました。
 1701(元禄14)年3月14日、浅野内匠頭長矩さんが吉良上野介義央さんに刃傷に及びました。
 3月26日、吉良上野介義央さんは、高家の職を辞して非役となりました。
 8月19日、吉良上野介義央さんは、本所へ屋敷替えとなりました。その後、上杉綱憲さんは、吉良上野介の妻であり、綱憲さんの母である富子さんを上杉邸に引き取りました。
 12月12日、吉良上野介義央さんが隠居して、吉良左兵衛義周さんが家督を継ぎました。
兄の上杉綱憲と、弟の吉良義周の悲運
 1702(元禄15)年12月14日、赤穂浪士が吉良上野介義央さんの屋敷に討ち入りました。父義央さんは、殺害されました。子の義周(17歳)さんは、薙刀を持って戦ったが、その場を逃れました。
 12月15日、病気で臥せっていた上杉綱憲さんは、赤穂浪士の討ち入り情報を知り、家臣を吉良邸に派遣しようとしましたが、幕府の遣使に止められました。
 1703(元禄16)年2月4日、赤穂浪士46人に切腹の命令が出されました。兄の上杉綱憲さんとその子吉憲さんは謹慎を命じられました。弟の吉良義周さんは信州高島の諏訪家にお預け(閉門)となりました。
 5月19日、上杉綱憲さん・吉憲さん父子の謹慎が解除されました。
 8月11日、上杉綱憲さんは、家督を長男の上杉吉憲さんに譲りました。
 1704(宝永元)年6月2日、上杉綱憲さんが亡くなりました。時に41歳でした。
 1706(宝永3)年1月20日、吉良義周さんが亡くなりました。時に21歳でした。
吉良左兵衛さんは、誰と、どう戦ったのでしょうか
先ずは、吉良義周さんの証言です
戦った相手は語らず
 吉良上野介さんの孫で、養子の嫡子である吉良義周さんは、討ち入り後の15日、幕府の検使に口上書を差し出しました。そこには次ぎように書かれています。この史料では、誰と戦ったかは分かりません。
 「昨日14日午前3時過ぎ、父の上野介や私がいる所へ、浅野内匠頭の家来と名乗り、大勢が火事装束の様に見えたのが、押し込んできました。表長屋の方は、2ヶ所に梯子をかけ、裏門は打ち破って、大勢が乱入してきました。その上、弓矢や槍、長刀などを持参しており、あちこちより切り込んできました。
 家来たちが防いだが、彼らは兵具に身を固めてやってきたので、こちらの家来は死んだり、負傷をしたものがたくさん出ました。乱入してきた者には、負傷させたが討ち取ったものはいません。
 私たちの屋敷に切り込んだので、当番の家来で近くに寝ていたものは、これを防ぎ、私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。しばらくして、気がついたので、父のことが急に心配しになりました。今へ行って見ると、最早父は討たれていました。その後は、狼藉を働いた赤穂浪士は引揚げ、居りませんでした」
史料
「昨十四日夜八ツ半過、上野介並に拙者罷在候処へ、浅野内匠頭家来と名乗り、大勢火事装束の体に相見え、押込申候。表長屋の方は二個所に梯子を掛、裏門は打破、大勢乱入致、其上弓箭槍長刀など持参、所々より切込申候、家来共防候得共、彼者共兵具に身を固め参候哉、此方家来死人、手負多有之、乱入候者へは手を負せ候ばかりにて討留不申候、拙者方へ切込申候に付、当番之家来傍に臥居候者共之を防ぎ、拙者も長刀にて防申候処、二箇所手を負、眼に血入気遠く罷成り、暫く有て正気付、上野介俄無心許存、居間へ罷越見申侯へば最早討れ申候、其後狼籍之者共引取、居不申候
 十二月十五日      吉良左兵衛」
吉川英治賞作家の皆川博子氏のびっくりする証言
吉川英治氏もあの世で泣いていますよ
 吉川英治賞作家の皆川博子氏が井沢元彦氏の『激論 歴史の嘘と真実』(祥伝社)のなかで、「驚いたのは吉良上野介の息子、義周のことを書く時にいろいろと当時の資料を調べてみたら…当時の記録で読みますと邸内にいたのは20人ぐらい。しかも、お屋敷の中に詰めていたのはわずか12人」とあっと驚くことを発言しています。
 そして、皆川氏はそれを前提に「討ち入りなんて予測もせず静かに暮らしていたんですよ。そこへいきなり武装して、鎖帷子つけて弓矢持ってでしょう。…これを読むと腹が立って、あれは暴力だと思うんです、私は。こんなことを言ったら、熱烈な義士ファンに殺されちゃうかしら(笑)」と事実に基づかない推論をする。これが吉川英治文学賞をもらった小説家
かと思うと、こちらが腹が立つ。本当にこんな暴論を吐露して義士ファンに殺されると思っているのか。オメデタイ!!
 上記の吉良義周さんの証言では、当番の家来が居たことを証言しています。
 一級史料では死者16人、負傷者23人、逃亡者4人の計43人が判明しています。皆川氏の邸内の20人、屋敷の12人合計32人より、11人も多い。
吉良左兵衛さんは、誰と、どう戦ったのでしょうか
吉良義周さんの実家側の証言です
戦った相手は武林唯七さんです
 吉良義周さんの実家である米沢藩の記録を調べてみました。
 そこには次のような記録があります。ここでは、はっきりと、戦った相手は武林唯七と証言しています。
 「左兵衛殿の傷は眉間に少々ありました。右の肩下の傷は、長さが約15センチほどで、深さもよほど深く入っていました。あばら骨は1本切っており、そのため動くたびに骨がカチカチと鳴るほどの重傷でした。
 評定所で、左兵衛殿が申すには、その傷は武林唯七の手になるものと証言しています。背中の傷も逃げる時に切られたのではなく、前後左右より取り囲まれ、八方より切りたてられた後傷です」
史料
「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候、二三日過ぎ左様の音も仕らず…御評定所にて、左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由、…御後の疵も逃疵ニハこれ無く前後左右より取囲み四方八方切り立て申す故、御後ニも疵有之るの由」(『米沢塩井家覚書』)
吉良左兵衛さんは、誰と、どう戦ったのでしょうか
戦った相手は武林唯七さんです
 介石記には「武林只七立向ひ…」とあります。
 烈士報讐録にも「武林隆重とに合う」とあります。
吉良左兵衛さんは、誰と、どう戦ったのでしょうか
戦った相手は不破数衛門さんです
史料
 久松家の家臣が書いた波賀朝栄聞書には「吉良左兵衛殿の退け尻を切シ者、不破数衛門の由也…」とあります。
 水野家の東条守拙さんが書いた赤城士話には、「吉良左兵衛かと見へ、若き男長刀を持出て向ふ、数右衛門渡り合い、暫く働けるが、数右衛門透間もなく切り懸り、一太刀切付けば、長刀を捨て行方知らず逃隠る、…右の若き者討ち捨てし長刀を見れば、銀の金物に梧桐のとふの紋所あり、■は左兵衛に紛れなしとて、其長刀を取りて帰る…」とあります。
 原惣右衛門さんが弟の和田喜六さんに宛てた2月3日付けの手紙には、「不破数右衛門勝負方一番にて候、足へとりかかり候者一人、働きこれある男にて、其男のつれ若き者にて候、もシ左兵衛殿にても候か、長刀を持候て、逃込申候を後より一太刀切付け候由、長刀捨て逃込み申候、年ぱいの男、切りとり申候由にて候…」とあります。
 当事者の書いた史料であるだけに、吉良左兵衛さんと戦ったのは、不破数右衛門さんに断然有利です。が… 
吉良左兵衛さんは重傷であった
 吉良左兵衛さんは、自分の証言でも、「気絶している間に、父上野介さんは死んでいた」と言っています。
 他の史料を見ても、やはり戦って重傷を負ったのは事実です。
 文官の吉良左兵衛さんが戦ったといっても、程度の差はあります。
史料
「御疵は左の御額四寸程、その外御胸御腕、これは少々の儀に候、右の肩ひるこうの通りより十二こうの通りまで長刀かなどにてかけ候様子にに相見え余程御疵の由…」(『大河原文書』)
「向疵薄手一ヶ所、けさ一ヶ所七寸ほど少深手…」(『江赤見聞記』)

参考資料
『忠臣蔵第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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