元禄15(1702)年12月14日(第234号)
吉良家の家臣は
どう戦ったのか?
吉良邸はまるで野原のさま
奮戦する吉良家の家臣
奮戦する吉良家の家臣 |
12月14日(東京本社発) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉良側を弁護する立場の意見では (1)「吉良側は油断も油断、隙だらけ」 (2)「討ち入りも予想せず静かに暮らしていた。そこへいきなり武装して…」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
書評忠臣蔵でも紹介しましたが、岳真也氏は『吉良上野介を弁護する』で、「内匠頭の一周忌のころにも、何事も起こらずにすんだ。そのあたりから、吉良方の警戒はだいぶゆるんだようだ。浅野大学の処分決定は吉良方にとっても大事件で、その後しばらくはまた警戒をきびしくしていたようである。その証拠に何度も上杉邸へ往復しています。吉良側としては、油断も油断、隙だらけ」と書いて、次の史料を提示しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)「弾正大弼殿午の夏頃より御病気にて、冬に至り候ても御大切之御様躰に御座候間、上野介殿昼夜弾正殿に御座候由相聞、又は茶之湯御好にて、其会に御忍び候て脇々へも御越、御手前へも御客切々御座候て、とかく能首尾無之候」(『江赤見聞記』) (2)「上州或は上杉の館に停留し、又或時は左兵衛方に住せしむ」(『忠誠後鑑録) (3)「上野介には折々本庄之屋敷御子息左兵衛佐様に御見舞として御越、二三日程づゝ屋敷に御逗留にて又上杉弾正様屋敷へ御戻り候由」(『桑名藩所伝覚書』) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岳真也氏は『吉良上野介を弁護する』で、次のような史料も紹介しています。 それによると、赤穂浪士の襲撃に対して、上杉方も堅固に桜田にある上杉邸を守っています。上杉邸がそうだから、本所の吉良邸では昼夜警衛し、門の出入りも厳しく改めています。 これをどう解釈するのでしょうか。 岳真也氏は、(1)(2)(3)の史料を後に持ってきて、(4)の史料を先にして、警戒していたが、浅野内匠頭の一周忌が過ぎても何も起こらなかったので、上杉邸に再三行くようになったと解釈しています。仮にそうだったとしても、大石内蔵助の作戦は、「相手の油断を待って討ち入り」ですから、吉良上野介はその作戦に敗れたということになります。 私は、(1)〜(4)を同時系列解釈しています。つまり、警戒しつつも、物見遊山は止められなかったということです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(4)「上杉方よりも堅固に之を守る、況んや本所の疎屋におゐては、猶以て昼夜警衛し、門戸の出入甚た是を改め…」 (『忠誠後鑑録』) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉川英治賞を受賞した作家の皆川博子氏は、『激論 歴史の嘘と真実』で、次のように書いています。 「驚いたのは吉良上野介の息子、義周のことを書く時にいろいろと当時の資料を調べてみたら…当時の記録で読みますと邸内にいたのは20人ぐらい。しかも、お屋敷の中に詰めていたのはわずか12人」と主張しています。 皆川氏はそれを前提に「討ち入りなんて予測もせず静かに暮らしていたんですよ。そこへいきなり武装して、鎖帷子つけて弓矢持ってでしょう。…これを読むと腹が立って、あれは暴力だと思うんです」と書いています。 しかし、史料の提示が全くありません。これでは反論の余地がありません。アンフェアです。 上杉家の史料によると、死者15人、負傷者23人、合計38人となり、皆川氏が「いろいろと当時の資料を調べ」た数をはるかに上回ります。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤穂市発行の『忠臣蔵』の見方は 「吉良屋敷の内にいた者は150人」 「死者17人、負傷者は28人、合計45人」 「長屋に閉じ込められた者101人、逃亡した者4人」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』によると、「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」とあります。 さらに、「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜左兵衛の側に寝ていた中小姓一人、徒士の者三人が行方不明となっている。これは逃亡したとみられるから、結局吉良屋敷の内にいた者は一五○人」と書いています。 吉良邸は全体で2550坪(畳5100枚分)あり、本屋の部屋数は40ほどあったといいますから、赤穂浪士の室内組20人による吉良上野介の探索は大変だったと思われます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯尾精氏(大石神社の名誉宮司)の吉良家の死者・負傷者・逃亡者データ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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上杉家の史料では、「死者15人、負傷は23人」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上杉家の史料によると、「吉良邸は野原のように散乱し、ここかしこに、負傷者や死者が倒れていました。山吉新八・須藤与一右衛門・左右田孫八らは、よく奮戦し、しのぎ(鎬)をけずるほど戦いましたが、敵の赤穂浪士は皆戦闘服を着込んでおり、鎗で突いても通りませんでした。敵の赤穂浪士には負傷者もあまりいませんでした。本所の吉良方には死者15人、負傷者23人です」とあります。 しのぎ(鎬)とは、刀の切り身の部分と背(峰)の部分の一番広い部分をいいます。そこで、「しのぎを削る」とは、刀の一番広い部分が削れるほど刀で斬り合うことを意味し、激しく争う様を表現するときに使用します。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「御殿中野原の如く打散し、ここ彼処ニ手負死人倒し申候、山吉新八、須藤与一右衛門、左右田孫八等の働き専一しのきをけつり候へ共、皆敵の分ハ着込いたし、衝ても討てもきれ通りも不致、敵ニハ手負も少ク御座候、本所方ニハ死人十五人、手負二十三人に候」(『米沢塩井家覚書』) |
吉良邸の死傷者一覧 | |||||
討ち死に(16人) | |||||
場所 | 馬屋前 | 名前 | 半右衛門 | 役職 | 表門番 |
小玄関前 | 鈴木正竹 | 坊主 | |||
中間二人 | 台所役人 | ||||
玄関 | 新貝弥七郎(40) | 近習 | |||
左右田源八(40) | 中小姓 | ||||
小塩源五郎(22) | 科理香 | ||||
小門口 | 斎藤清左衛門 | 左兵衛中小姓 | |||
小屋出口 | 杉松三左衛門(36) | 近習右筆 | |||
牧野春斎 | 坊主 | ||||
南書院前 | 小林平八郎 | 家老・上杉家付人 | |||
南書院次 | 須藤与一右衛門 | 取次 | |||
書院次 | 笠原長右衛門(25) | 右筆 | |||
台所口 | 大須賀治部右衛門(30) | 上野介用人 | |||
清水一学(40) | 上野介用人 | ||||
榊原平右衛門(50) | 役人 | ||||
座敷庭 | 烏井利右衛門(60) | 用人 | |||
手負い(21人) | |||||
負った傷 | 中傷二カ所 | 名前 | 松原多中(40) | 役職 | 家老 |
重傷数カ所 | 清水団右衛門 | 取次 | |||
重傷三カ所鎗傷 | 斎藤十郎兵衛(25) | 取次 | |||
中傷二カ所 | 山吉新八 | 近習 | |||
中傷三カ所 | 宮石所左衛門(50) | 用人 | |||
重傷 | 宮石新兵衛 | 近習中小姓 | |||
かすり傷 | 加藤太右衛門(53) | 中小姓 | |||
顔に三カ所刀傷 | 永松九兵衛(23) | 近習 | |||
━ | 石川彦右衛門 | 中小姓 | |||
━ | 大河内六郎右衛門 | 足軽表門小頭門番 | |||
重傷 | 天野貞之丞(34) | 中小姓 | |||
━ | 堀江勘右衛門(35) | 中小姓 | |||
かすり傷 | 伊藤喜左衛門(23) | 中小姓 | |||
━ | 杉山与五右衛門 | 中小姓 | |||
━ | 森半左衛門 | 足軽 | |||
━ | 岩田源三兵衛 | 足軽 | |||
━ | 兵左衛門 | 中間(三の下番) | |||
━ | 八太夫 | 中間(駕の者) | |||
━ | 茂右衛門 | 中間(馬屋の者) |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)
「忠臣蔵のことが面白いほどわかる本」(山本博文)