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元禄15(1702)年12月14日(第235号)

忠臣蔵新聞

吉良上野介さんの最期は
どうだったのか?

映画やTVでは、往生際悪し
事実は、引き出される前に死んでいた

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吉良邸絵図面(は上野介が隠れていた炭小屋)

炭小屋に隠れいた吉良上野介さんを刺す 往生際の悪い上野介さんを刺す内蔵助さん
12月14日(東京本社発)
自害をためらう吉良上野介さんを、大石内蔵助さんが刺し殺す(フィクション)
吉良上野介さんは「勇敢に戦って死んだ?」
本当はどうだったのでしょうか
 映画やTVでは、 往生際が悪く、自害をためらう吉良上野介さんを、大石内蔵助さんが刺し殺す場面が多く、それが事実だと思っている人がたくさんいます。
 吉良上野介さんを弁護する立場の人は、「上野介さんは勇敢に戦って死んだ」と主張します。
 「ビートたけしの!悪役のススメ!!」(忠臣蔵新聞222号)でも詳しく述べました。
 「吉良上野介を弁護する(8)」(書評忠臣蔵41号)でも詳細に検証しています。
 あまり詳細であるため、かえって、混乱しているかもしれません。ここでは、簡単に、報告したいと思います。
寝間から炭小屋に逃げ隠れした上野介さん
槍で刺されてふらっと出てきた上野介さん
「脇差を抜いて振り回す」上野介さん
勇敢な姿でなく、泣かされた子が必死で抵抗する姿
赤穂浪士の集合場所では、既に死体だった
@吉良邸の屋敷内は二階まで隈なく探しましたが、上野介殿は見えませんでした。この段階になると、上野介の家来1人も出会うものは座敷中にはいませんでした。まるで、空き屋敷の様に思われました。
Aそこで、先に捕まえていた吉良義周の用人である斎藤宮内に案内させて、ご寝間へ行ったところ、吉良上野介は、床の中にはいませんでした。そこで、床の内に手を入れてみると、肌の温かみが感じられたので、「さては、床を抜け出して間もないので、そんなに遠くへの逃げていないはず。それならば、座敷の中もっと探せ」ということになり、あちこち探しました。
Bそうこうしている内に、勝手の部屋の一部に炭部屋が見えました。戸が立ててあり、まだ探し残した所を見つけて、戸を打ち破ると、中に2、3人いるように見えて、中からむざと(惜しげもなく。うっかり)炭部屋にある物を投げてきました。
C間十次郎がそのまま槍を突くと、上野介の前に2人が立ち塞がって主君を守っていました。この2人は、特によく働きました。しかし、2人とも討ち果たしました。上野介殿も脇差を抜いて振り回すところを、再度十次郎が槍で突き刺しました。
D上野介の警護の侍は、須藤与一右衛門と鳥井利右衛門、それに清水逸学(一学)だったと思われます。清水一学については、須藤と鳥井が討死した時、少々戦って討死したとなっています。
E間十次郎が一槍突くと、脇差を抜いて出て来たので、武林唯七が一刀のもとに切りとめました。この死人の年頃が上野介殿ではないかと思う所もあったので、装束を見ると、した気は白の小袖でした。それでは、顔に古傷があるかと、調べましたが、顔の傷は討ち入りの時の傷と以前の古傷とが重なっていて、はっきりと見分けがつきませんでした。
 背中の傷は確かに主君の傷に見えたので、上野介の首は一番槍の十次郎に揚げさせ、白小袖に包んで、以前決めていた合図の笛をお互いが吹き合いして、全員が表の玄関前に集合しました。以前、案内のためにと捕らえていた表門の門番3人に、吉良上野介の首を見せると、「間違いなく上野介殿の首でございます」と証言しました。
 懐に守り袋が3つあるのも証拠であると、その場所にいた者たちが取り揃へて持参しました。
史料
@「家内二階迄隅無く尋ね申し候へ共 上野介殿相見へ申さず候 此の節やしき内壱人も出合い申すもの座敷中ともにこれ無く 明屋敷様に存ぜられ候」(両人覚書)
A「斎藤宮内案内にて御寝間江参り見候ヘハ、最早とこの内に居り不被申候付とこの内へ手を入見候ヘハ、アタヽカニ候付、扨ハ間もなきに候間遠はおち被申間敷候間、さらハ座敷之内尋候得とて方々尋申候」(本所敵討)
B「然る所勝手之内 炭部屋と相い見へ申候所に 戸立て候て これ有るを探し残し候所を見出し候て 戸うち破り申候所 内に二三人もこれ有りと相見へ 内よりむざと仕たる物をなげ打にいたし防ぎ申し候」(両人覚書)
C間十次郎其儘鎚つけ申候 上野介殿前に両人立ちふさがり防ぎ申候もの 殊の外働き申候 両人共打ち果し申候 上野介殿も脇差を抜き振り廻し申候」(吉田忠左衛門談)
D                須藤与一右衛門
                鳥并利右衛門
 右両人は上野介様・左兵衛様御供に而暫し逃申候、台所に而散々戦ひ向は大勢なり、よろひ申候故討死仕候、両人之万さゝらの如くの由、向疵所々ニ有之、鳥井ハ首を二に割られ申候、須藤ハ御せんふに切伏せられ候、検使衆も御褒披之由
                清水逸学
 御両人様御供仕須藤・鳥井討死之節少々戦ひ討死」(「大熊弥一右衛門見聞書」)
E「脇差抜あわせ申候を 武林確七一刀に切りとめ申候 此の死人年頃上野介殿にてもこれ有る可きかと心付き候所これ有り 装束を見候所 下着白小袖にて候 然らば面の内に古疵これ有る可きと吟味を遂げ候処に 面の疵は当座之疵にてまがい分明せず候え共背之疵慥に相見へ候に付 首を十次郎に揚させ候て 白小袖に包み兼ての相図の笛を吹き合せ 表の玄関前へ集り 前かど案内の為めとらへ置き候 表門之番人三人に見せ申し候処 疑無く上野介殿しるしにて御座候と申候 懐中之守袋三ツ御座候を是も証拠にと 其の場所の者とも取り添へ持参致し候」(両人書状)
「吉良上野介さんの最期の場面」の史料@からJを検証
上杉家史料の2点が上野介さんを死を華々しく描く
他の上杉家・吉良家史料の2点は、定説通り
@『忠臣蔵』(赤穂市発行)の『本所敵討』という史料がありました。「大石内蔵助口上之趣」と題して、「上野介殿寝間見申候ヘハ小袖はかり有之居不申付、方々尋候処ニ、灰部屋ニ居被申候、白小袖を着候者上野介殿ニ可有之と存鑓にて突申候、上野介殿脇差を抜刃向被申候付、脇ニ居候者弐人ことの外働申を、是も討留侯、夫より上野介殿首討取て候、右弐人之目明之者ニ見せ申処ニ無紛上野介首ニ候由申、又内匠守(頭)刀付候跡も有之候事」とありました。
A『江赤見聞記』にあり、原文は「上野介殿むくろに、両手のうち三ヶ所、左の股に一ヶ所、膝頭に二ヶ所、こぶらに一ヶ所疵つき候、脇指しに血つきこぼれ、柄口に切り込みの由、刀は二尺三寸、無銘、拵え麁相に見え申し候…」です。
です。
 しかし、これを以って、武人として、華々しく抵抗したとは読み取れません。敵の槍や刀を必死で、振り払ううちに、傷つき、脇指しも自分の血がつくこともあります。
@を補強する、華々しく抵抗した史料として、
B『米沢塩井家覚書』には「元より上州様目懸け申したる事故、前後左右より取り込み申し、ためし討申し候、御疵二十八ケ所ニ候…」があります。これも上杉関係の史料です。
C『大熊弥一右衛門見聞書』(夜番の記録-大河原文書)には、「上野介様に而は三尺手拭帯に而刀を持ち、方々逃あるき台所に而御首を被討取、御胸とをりハ一太刀つゝ切付候」(手ぬぐいに刀を包んで、あちこち逃げ歩いて台所で首を討たれました)。上杉家の最も信頼できる史料では、二ヶ所切られたとあります。
D討入り当事者である磯貝十郎左衛門と冨森助衛門の証言によると、「残りの者を間十次郎一鎗突き申候所脇差抜あわせ申候を 武林唯七一刀に切りとめ申候 此の死人 年頃上野介殿にてもこれ有る可きか」(要点は「間十次郎が槍で突き、脇差を抜こうとしたところを武林唯七が一刀でしとめました」とありますから、二ヶ所の傷が正しいのではないでしょうか。脇差の血もこの時に着いたのではないでしょうか)
E『上野介邸手負口上書』には「両手之内掌一ヶ所宛」とあります。
F『介石記』には「両手のうち二ヶ所」とあります。
G『赤穂鐘秀記』には「両手のうち二ヶ所」とあります。
H『野本忠左衛門書状(吉良方の記録)』には「御手疵数ヶ所」とあります。
I『寺坂私記』には「即ち間十次郎一鑓突き申し候ヘハ、脇指を抜き候を、武林唯七一刀に切り留め申し候。此の死人、年ごろ上野介殿にて」とあります。
J『波賀朝栄聞書』には「間重次郎鑓突け申し候。尤も武林唯七其の外居合せ候者とも切り申し候て、死体引き出し見候…」とあります。
上記史料の@ABCDHJは第一級史料
上杉家史料の@Bのみが華々しく活躍
上杉家・吉良家史料のCHは二ヶ所から数ヶ所の傷
その他の史料もADJは二ヶ所

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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