平成20(2008)年2月14日(第269号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第9巻)

ドラマの開始(2)
喧嘩両成敗を覆した綱吉の怒り

評議する幕府の要人(模写:角石氏)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
吉良上野介を治療した栗崎道有の証言
「幕府の決定は、相対的な手落ち(喧嘩両成敗)だった」

喧嘩両成敗を覆した将軍綱吉の怒り
不公平な採決へ
上段の間で将軍(左)が勅使(右)より挨拶を
受ける(『徳川盛世録』)
上段の間に立つ将軍が次の間、
三の間の諸大名から挨拶を受ける
(模写:角石氏)
 将軍綱吉が下した決定は次のような内容でした。
 「内匠頭は場所を考えず、個人的な恨みで上野介に切りつけケガをさせたことは不届である。
そこで、田村建顕に預け、内匠頭には切腹を命ずる」
 「上野介は場所を考え、手向かいしなかったことは神妙である。そこで、自由に家に帰ってよろしい」
*解説:老中の決定は、「相対的な手落ち」(喧嘩両成敗)だったにも拘わらず、将軍綱吉は、不公平な決定を行いました。それは、3月14日の儀式が将軍綱吉にとって、朝廷や諸大名に対して権力と権威を誇示する極めて重要な意味を持っていたからです。
 特に朝廷の使者の前で、野蛮な東夷(あずまえびす)の醜態をさらしたことに、将軍綱吉が激怒した気持も理解できます。
 しかし、冷静になってから、最終の決定をすべきでした。感情が激したまま、不公平な採決を行ったことが原因で第二の事件に発展することを権力者綱吉は気がついていません。
史料(1)
 「浅野内匠頭義先刻御場所柄も不弁自分宿意ヲ以吉良上野介江及刃傷候段不届ニ付田村左(右)京太夫(建顕)江御預其身は切腹被 仰付」
史料(2)
 「上野介儀御場所ヲ弁不致手向神妙之至御医師吉田意安服薬被 仰付、外科は粟崎道有被 仰付随分大切ニ保養可致候」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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