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平成20(2008)年3月14日(第271号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第11巻)

大石内蔵助、山鹿素行と出会う
8歳から17歳までの多感の時期

大石内蔵助さん(赤穂大石神社)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
山鹿素行が幕府の方針を批判し、赤穂に流罪
(1)1666(寛文6)年10月3日、山鹿素行(45歳)は、『聖教要録』を書いて、幕府の御用学問である朱子学を批判して、赤穂に流罪となりました。
*解説1:山鹿素行は、『聖教要録』で、次の様に書いています。
 幕府つまり保科正之(2代将軍秀忠の子)が熱烈に推進する朱子学政治は、今や「中国の、しかも書物の上の知識をふるまわすのみで、日用事物の上に役立っていない」御用学問であると批判し、自分の教え(聖学)こそ朱子学に代って封建的支配者に奉仕する学問である。
詳細は忠臣蔵新聞第15号を!!
詳しくは、「忠臣蔵新聞第15号」をご覧下さい

山鹿素行は、大石内蔵助の大叔父頼母助邸の一部に謫居
その時内蔵助は8歳だった
(9万3419バイトの精細写真を表示)
(2)1666(寛文6)年10月、山鹿素行は、大石内蔵助の大叔父(祖父の弟)頼母助の屋敷の一角に謫居(身分の高い人などがとがめをうけて遠方に流され、その地に住む)しました。
 千種川の水を産湯として赤穂で生まれた大石内蔵助は、この時、8歳になっていました。
 1675(延宝3)年7月、対立していた保科正之が死んで、山鹿素行は許されて江戸に帰っていきました。この時、内蔵助は17歳の若者になっていました。内蔵助は、よそ者でなく、立派な赤穂人です。

山鹿素行が赤穂に残した遺産は?
それは武士としての大義
(3)9年の間に山鹿素行が赤穂に残した遺産は、「武士として大義に生きよ」という教えでした。武士として屈辱を受けたら、相手を倒す。命よりも名誉を重んじる、という戦国時代からの武士道の考えです(赤穂高光寺の三好一行氏)。
(4)この考え方を率直に語るのが、赤穂で生まれ育った大高源五です。源五は「主君のかたき(仇)である吉良上野介を安穏と生かしておくことは、武士の道からはずれている」と母への遺言で語っています。
(4)吉良邸討入りの趣意状(浅野内匠頭家来口上)には、「留める人がいたので、主君の内匠頭は上野介を討ち取ることが出来なかった。主君の心情を思うと、私たち家来は我慢できない。そこで、主君の意趣を継いて主君の志を遂げたい」と書いています。
*解説2:現在の社会的常識から、江戸時代の封建社会を判断しては、正しい理解はできません。当時の武士階級は6%しかいませんから、当然、管理者階級です。武士は管理者として、高い地位・名誉を与えられ、報酬も得ているのです。当然、管理者の責任も重く、江戸時代は「武士は死ぬことと見つけたり」でした。
 現在の管理者階級も、高い地位・名誉を与えられ、報酬も得ているのです。当然、管理者の責任も重く、その責任の取り方が問われているのです。名誉と報酬を得て、責任は部下に取らせるでは、日本の伝統が泣くと言うものです。
史料
(史料1)「君の儺を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大義也」
(史料2)「かたきを、安穏にさしおき申すべき様武士の道にあらぬ事にて候」
(史料3)浅野内匠頭家来口上
 「去年三月…右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これあり、上野介討ちとめ申さず、内匠末期の残念の心底、家来共忍びがたき仕合せにこざ候。…ひとへに亡主の意趣をつぐ志までにござ候」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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