平成20(2008)年3月14日(第274号)
ダイジェスト忠臣蔵(第14巻)
浅野長直の赤穂城築城
その財源─塩田開発
入浜塩田の構造(赤穂市歴史博物館像を模写) |
(7万0031バイトの精細写真を表示) |
■(池田時代の塩田):■(浅野時代の塩田):■(森時代の塩田)(『赤穂市史』より) |
元禄15(1702)年12月15日(東京発) | |||||||||||||||
塩田を127町歩開墾し、塩の生産高の4万1460石へ 表高5万3500石を合わせると、9万4960石の大藩へ | |||||||||||||||
浅野長直は、赤穂城築城の財源を求めて、塩田開発にも取り組みました。 長直がどれほど精力的に塩田を開発したかを調べてみよう。
加里屋村では、寛文6(1666)年の検地帳に、17町4反4畝5歩とあります。6町歩余を開発していることになります。 つまり浅野時代の塩田の開発は、次の様になります。
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赤穂塩の江戸進出の企業秘密はマニュファクチャ化 それを推進したのが経済官僚の大野九郎兵衛だった | |||||||||||||||
赤穂藩主も通ったという上段の間(赤穂市田淵邸) | |||||||||||||||
赤穂塩田が発展して、江戸に進出した企業秘密にはマニュファクチュアの導入があったといわれています。 浅野長直は、塩田経営面積の基本単位を1町歩としてこれを1軒前と呼んでいます。浜男・浜子を賃金労働者として、協業による生産を行わせるという、いわゆる製塩マニュファクチュアを確立したのです。 孫の浅野長矩の時に、大野九郎兵衛が藩札の発行に踏み切りました。 これにより塩田からの収入を増加させ、また、塩の生産と販売を一手に赤穂藩が握ることになりました。 その結果、赤穂塩はどんどん江戸に進出し、良質の赤穂塩は吉良塩を侵食していきました。赤穂事件の遠因はここらあたりにあるのではないでしょうか。 最近、吉良町史に詳しい鈴木悦道氏は、「塩田は吉良領になく、隣接する他藩の所有であった」という重大な指摘をしています。 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)