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平成20(2008)年3月14日(第276号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第16巻)

公約遵守派の大石内蔵助と
討ち入り強硬派の堀部安兵衛との確執

大石内蔵助(赤穂市大石神社蔵)
 平成20(2008)年3月14日(東京発)
堀部安兵衛らの強硬な申し入れ
「上野介が生存している以上は、籠城」 
 赤穂城を明け渡す5日前の4月14日のことです。
 堀部安兵衛、奥田孫太夫、それに高田郡兵衛が赤穂に到着しました。彼らは、午前中に主君浅野内匠頭を送り出し、夜には、主君の遺骸を引き取った江戸在住の家臣でした。
 そして、大石内蔵助を訪ね、書院で面会しました。そして、次のような申し入れをしました。
 「吉良上野介が今なお生きているのに、赤穂城を明け渡して、離散してはどこに顔向けできようか。城を枕にして討ち死にする以外にない」と籠城を説きました。
 これに対し内蔵助は、「籠城しては大学殿の指図の様に受け取られ、大学殿の身を滅ぼすことになる」と反論しました。
 それに対して、堀部ら3人は、「城明け渡しをしてしまっては、浅野家には家臣はいないのかと世間に言われるだろう。願いが叶わない内は餓死しても離散してはいけない」と強硬意見を出しました。

史料(1)
 上野介今以存生ニ候ヘハ当城離散致シ何方へ面ヲ向ケ可申様無之候、唯城ヲ枕ニシテ果ルノ外他事ナキ儀…
 大学殿指図ノ様ニ罷成候ヘハ、大学殿御身上滅亡ニ及ヒナン(「堀部武庸筆記 上」)

内蔵助のキッパリした反論
「城明け渡しは浅野一族に約束している」
 堀部ら3人の強硬意見に対して、内蔵助は、「それはもっともな意見であるが、もはや主君の叔父である戸田氏定殿や主君の弟である浅野大学殿に”お城を明け渡す”と約束した上は、そのようなことは出来ない」とキッパリと答えました。
 堀部ら3人は、内蔵助のキッパリとして回答に、「内蔵助殿は老身の役義」だからと説得をあきらめ、番頭である奥野将監に相談することにしました。

史料(2)
 御請申上候上ハ左様難成存候(「堀部武庸筆記 上」)

内蔵助は「以後の含みもある」と説得
堀部安兵衛らも納得して、江戸に帰る
 三度嘆願の3日前、つまり4月15日のことです。
 堀部ら3人は、城下を引き払って遠林寺に移っていた奥野将監を訪ね、同意をもとめましたが、結論は内蔵助と同じでした。
 しかたなく、堀部ら3人は、再び内蔵助を訪ねました。そこで、内蔵助は、「この度は私に任せてほしい。これで終わりではない。以後の含みもある」とっ説得しました。
 そこで、強硬派の3人は、やっと承知して、江戸に帰って行きました。
*解説1:大石内蔵助には、討ち入りする考えはなかったという人もいます。しかし、私は、この「以後ノ含モ有之候」という中に、浅野家再興説(大学…御奉公モ相勤り候様ニ奉願候)と並行して、「仇討ちの野心を持っていた」と思っています。

史料(3)
 内蔵助ニ任セ候ヘ、是限(切)ニハ不可限以後ノ含モ有之候(「堀部武庸筆記 上」)


堀部安兵衛の本心
(1)主君の恥を晴らすより他にない
(2)ただ亡君の憤りをお休みさせたい
(3)身命をなげうって亡くなった、その意志を継ぐより他はない
堀部安兵衛(赤穂市大石神社蔵)
 大石内蔵助の説得で江戸に帰ったものの、主君が命を落とすきっかけとなった吉良上野介と同じ空気を吸うことに耐えられなくなったのか、堀部安兵衛は、新たな動きをします。
 6月18日に、堀部安兵衛は、内蔵助の叔父(内蔵助の父の弟)にあたる小山源五右衛門に次のような手紙を送っています。
 「私たちも同志を募っているが、4〜5人しか集まらない。そこで同志をもっと増やす必要がある」
 「しかし、赤穂の国家老であった大石内蔵助殿や江戸家老の安井彦右衛門殿らは”浅野大学殿の安否を見届けたい”と亡君のことも忘れて世渡りをしている。私たちは、主君の恥を晴らすより他にないと思っています」「私たちの気持ちは、ただ亡君の憤りをお休みさせたいだけです」「私たちは、主君は身命をなげうって亡くなったからには、その意志を継いでそれを顕かにするより他はないのです」

史料(4)
(1)恥開(ハチヒラ)キヨリ外ハ無之候
(2)亡君ノ憤ヲモ休申度ノミ存念ニ御坐候
(3)擲身命候テ亡後ニ志ヲ顕申ヨリ外ハ無之
(「堀部武庸筆記 上」)

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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