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平成20(2008)年3月14日(第277号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第17巻)

安兵衛をつき動かす江戸の庶民感情

原惣右衛門(赤穂大石神社蔵)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
大石内蔵助は、江戸の過激派を説得するため派遣
(1)54歳の原惣右衛門が逆に説得される
(2)理論派の大高源五が逆に説得される
大高源五(赤穂大石神社蔵)
 9月18日、大石内蔵助は、堀部安兵衛らの手紙を読んで、「勝手に討ち入りを計画して失敗すれば仇討ちどころか、笑いものになる」と心配しました。
 そこで、江戸の過激派を説得するために原惣右衛門(54歳)・潮田又之丞(33歳)・中村勘助(46歳)を江戸に派遣しました。
 ところが逆に3人は江戸の空気にふれて、堀部安兵衛らに説得されてしまいました。

 10月8日、大石内蔵助は、原惣右衛門らが堀部安兵衛らによって説得されてしまったことを知りました。そこで、堀部安兵衛ら過激派の行動をなだめるように派遣された進藤源四郎(内蔵助さんの叔母の夫)と大高源五が江戸に到着しました。
 大高源五らは、早速、堀部安兵衛の家(両国矢倉米沢町)を訪ねましたが、逆に説得されてしまいました。
 その時の状況を、大高源五は次の様に述べています。
 「堀部安兵衛らと話し合ったが、私が上方にいて思っていたのとは違い、安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛ら3人が言うことはもっともだと納得した。そこで、内蔵助殿に江戸に来てもらうことを決めた」

史料(1)
 上方ニテ存候トハ違ヒ三人ノ所存尤ニ候


江戸の異様な雰囲気とは何か
江戸の雰囲気(長安雅山画:赤穂市歴史博物館蔵)
 長老の原惣右衛門が江戸の雰囲気に会って、堀部安兵衛らと同調してしまいました。
 理論派の大高源五も江戸の雰囲気に会って、堀部安兵衛らと同調してしまいました。
 一体、江戸はどのような状況だったのでしょうか。
(1)将軍徳川綱吉は、将軍の権威を高めるため、朝廷政策を強力に推進しました。その結果、諸大名には、貴族的な儀式・規則を重視させ、その指導に吉良上野介などの高家衆を重用しました。大名や旗本の不満は頂点に達していました。
(2)生類憐みの令を厳しく実施し、水戸黄門と言われた徳川光圀ですら意見出来ない独裁的恐怖政治を行っていました。庶民の不満は頂点に達していました。
(3)側用人の柳沢吉保と勘定吟味役の荻原重秀が推進した貨幣改鋳によるインフレ政策の結果、物価が上昇し、庶民の不満は頂点に達していました。
(4)いとも簡単に大名を取り潰すという改易政治をおこない、大名や旗本の恐怖心は頂点に達していました。


幕府は、吉良上野介に本所への移転を命令
(1)江戸の庶民は「仇討ちをする時が来た」と噂
(2)上野介の身内も「上野助を討て言っているようなもの」に同意
 幕府は、高家筆頭職辞任の吉良上野介に江戸城の内郭(幕府の管轄地域)である呉服橋の屋敷から本所松坂町(上総国)の松平登之助(両国橋の外側)の上屋敷(空屋敷)移ることを命じていました。
 9月2日、上野介は移転しました。
 上野介が本所に屋敷替えを命令されたことを江戸の人々はどのように思っているのでしょうか。多くの人は「内匠頭の家来が仇討ちをする時が来た」という噂をしていました。
*解説:本所松坂町が出来たのは、元禄16(1703)年2月4日、吉良家が取り潰しにあって以後、この地が町人地になった時です。ですから、当時は存在していませんが、ここでは、通称を採用しています。
本所松坂町の誕生
 ある確かな情報によると、吉良上野介の従弟婿である松本城主の水野忠直が親しい友人に「上野助殿が本所松坂町に屋敷替えを命じられた」と話した所が、お伽をしていた座頭が「それでは幕府が内匠頭の家来に上野助を討て言っているようなものではありませんか」と言うと、「その通りである」と答えたと言います。

史料(2)
(1)内匠殿衆ノ仕合存念ハ可達時節ト専取沙汰仕候
(2)是ハ従御公儀 内匠頭家来ニ討候ヘト

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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