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平成20(2008)年3月14日(第280号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第20巻)

江戸の不満(3)─貨幣改鋳とインフレ

側用人の柳沢吉保
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
貨幣改鋳の背景T
(1)護国寺の創建、護持院の造営
(2)大嘗祭の復活、葵祭りと賀茂競馬の再興
(3)官立の湯島の聖堂の設立
 将軍綱吉は、文治・仏教・朝廷政策で膨大なお金を支出しています。
 天和元(1681)年、将軍綱吉の援助で護国寺を創建しました。
 貞享4(1687)年、将軍綱吉の援助で220年ぶりに大嘗祭が復活しました。
 元禄元(1688)年、将軍綱吉の援助で護持院の造営を行いました。
 元禄3(1690)年、将軍綱吉の援助で江戸忍岡の聖堂を湯島に移しました。これが官立の湯島の聖堂です。
 元禄7(1694)年、将軍綱吉の援助で192年ぶりに加茂葵祭・賀茂競馬が再興されました。
 元禄元(1688)年から元禄9(1697)年の間に22万8000両を消費したといわれます。

貨幣改鋳の背景U
(4)佐渡金山の産出量が20分の1に減少
(5)明暦の大火で江戸城などが消失
(4)佐渡金山の産出量を調べてみました。両にして20分の1に減少していることが分ります。
10年間 江戸上納銀高
元和9(1623)年から寛永9(1632)年 6万0000貫目 120万両
天和3(1683)年から元禄5(1692)年 8180貫目 6万両

(5)明暦3(1657)年、明暦の大火(別名振り袖火事)により、外堀以内のほぼ全域、天守閣など江戸城や多くの大名屋敷、それに市街地の大半が焼失しました。
 財政難により、江戸城天守閣は、再建されませんでした。
ヤケド跡も生々しい江戸城の石垣

財政再建を図るための妙案・妙計
それが貨幣改鋳というインフレ政策
元禄小判 慶長小判
小判1両中の金成分比
量目(匁) 純分(匁) 百分比(%)
慶長大判 44.10 29.85 67.70
慶長小判  4.76  4.01 84.29
慶長銀     80.00
元禄大判 44.10 22.83 51.77
元禄小判  4.76  2.73 57.37
元禄銀     64.00

幕府財政の現状
(1)柳沢吉保は、勘定吟味役の荻原重秀を抜擢
(2)年収76万両─旗本給金30万両=残金47万両
 そこで、柳沢吉保は、勘定吟味役の荻原近江守重秀を抜擢しました。
(1)御料400万石からの年収76万両(年貢69万4000両+長崎運上6万両+酒造運上6000両)です。
(2)支出は旗本への給金30万両になります。
(3)余るところの金は47万両です。
昨年(1708年)の財政状況
(4)歳出140万両+内裏再建費用80万両=220万両
(5)残金47万両─支出220万両=不足金173万両
(6)幕府の御金蔵に保管金は37万両
 昨年(1708年)の財政状況を検証しました。
(4)歳出は140万両で、それに内裏再建費用として80万両、合計220万両を支出しています。
(5)現在の幕府の残金は47万両ですから、220万円を引くと、幕府の不足金は173万両となります。
(6)徳川家康以来、幕府の御金蔵に保管されていた膨大な金も、僅か37万両しかありません。
 既に農民への税金は限界に達しています。そこで安易に考えられた方法が貨幣の改鋳でした。
貨幣改鋳による幕府の利益(出目)は500万両
 元禄8(1695)年9月から慶長の金銀を改鋳して、元禄金銀を捻出しました。その結果得た利益(出目)は500万両に達しました。

 史料(1)の口語訳です。
 「荻原重秀が計算して申すには、”幕府の御料は400万石です。年々上納されるお金は約76万両で、その内長崎運上が6万両、酒運上が6000両です”。以上は荻原近江守重秀が申したことです。
 この内、旗本への夏冬の給金30万両を除くと、余るのは47万両となります。
 去年(1695年)の国の費用は140万両に及んでいます。この他に内裏の修理に80万両が必要です。そうすると、今、国の財の不足は170〜180万両になります。…ただ今御蔵にあるのは僅か37万両に過ぎません。…
 前代の家綱公の時から、歳出は、歳入に倍増して、国の財政はつまづいています。
 そこで、元禄8年9月から金銀の改造をしています。それより今まで、年々収公した公利(出目)は早計で金500万両になります。これを以って常に不足する所を補充している。元禄16(1703)年冬の大地震により傾き壊れた所を修理すると、改鋳によって年々収公した出目もあっという間になくなってしまいました。その後、また国の財政が足らなくなることは、元のようになったので、宝永3(1706)年7月、重ねて又銀貨を改造されました」

史料(1)
 重秀が議り申す所は、御料すべて四百万石、歳々に納めらるゝ所の金は凡七十六七万両余、此内長崎の運上といふもの六万両、酒運上といふもの六千両、これら近江守申し行ひし所也、此内夏冬御給金の料三十万両余を除く外、余る所は四十六七万両余也。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此外に内裏を造りまいらせらるゝ所の料凡金七八十万両を用ひらるべし。されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。(中略)只今、御蔵にある所の金、わずかに三十七万両にすぎず。(中略)前代の御時、歳ごとに其出るところ、入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て、元禄八年の九月より、金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以ってつねにその足らざる所を補ひしに、おなじき十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所々を修治せらるゝに至て、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。そのゝち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月、かさねて又、銀貨を改造られし(新井白石『折焚く柴の記』)


貨幣改鋳にからくり
(1)新井白石「其の半ばを奪ふべきための術」
(2)庶民は、「悪化は良貨を駆逐する」を実践
(3)幕府は、「極印を吹き直す」と詐術的命令
 新井白石は、幕府の貨幣改鋳の真の目的を次の様に喝破しています。
(1)「貨幣改鋳で金銀の数を増やされた理由は、真実は慶長以来造られた金銀の数の半分を奪うべき方法であった」(史料(2)の(1))。
(2)庶民は、「悪化は良貨を駆逐する」を自然に会得して、それを実践しています。
 「新しい元禄金銀は悪いので、古い慶長金銀と引き替えに出しません」(史料(2)の(1))。
(3)そこで、幕府は、次のようなお触れ(命令)を出します。
 「慶長の金銀の極印が古くなったので、吹き直す旨の命令が出されました。また、近年鉱山より出る金銀も多くはなく、世間の金銀も次第に減ってきたので、金銀の位を直し、世間の金銀を多くするため、この度命令が出されました。
 慶長の金銀を吹く直すについては、世間の人々が所持している金銀を公儀(幕府)が取り上げるのではなく、公儀の金銀を先に吹き直し、その上で世間にだす。その時になって諸事申し渡すことである。以上心得ておくよう、前もって申し聞かせておく。以上」(史料(2)の(3))。

史料(2)
(1)金銀の数を増され候由…真実は慶長以来造られ候ほどの数、其の半ばを奪ふべきための術にて候(『折りたく柴の記』)
(2)新金銀アシキ故、古金銀引替ニ出サズ(『三貨図彙』)
(3)元禄八亥年八月
    覚
一、金銀極印古く成候に付、吹直可き旨仰出さる、且又近年山より出候金銀も多く無之、世間之金銀も次第に減し申可に付、金銀之位を直し、世間之金銀多く成候ため、此度仰付けられ候事。
一、金銀吹直し候に付、世間人々所持之金銀、公儀え御取上成らるにては無之候、公儀之金銀、先吹直させ候上にて世問え出す可し、其の時に至り諸事申渡可事。右心得の為、先達て申聞候以上(『御触書寛保集成』)


インフレーションとデフレーション
通貨量と商品数で考えることが基本
 インフレは、インフレーション(inflation)の略で、一般には、「需要と供給のバランスが崩れて、総需要が総供給を上回った場合に、これが物価の上昇によって調整されることで発生する」と説明されます。
 分ったようで、分りにくい説明です。古典的経済学の「見えざる手」(アダム=スミス)時代の説明です。
 今は、日本銀行が貨幣の発行高や公定歩合を上下する金融政策の時代です。

 私は下の表を使用して、インフレとデフレを説明しています。
(1)世の中に、商品の製造総数がパン1個しかなくて、通貨の総発行量が100円しかない場合、物価は、100円です。
(2)世の中に、商品の製造総数がパン1個しかなくて、通貨の総発行量が200円に増発された場合、物価は、200円です。パンは1個の値打ちしかありませんが、貨幣が増発されただけで、200円の価値を持ちます。しかし、お金からいうと200円出さないとパン1個が買えないので、お金の価値が下がったことになります。これをインフレといいます。
(3)世の中に、商品の製造総数がパン1個しかなくて、通貨の総発行量が50円に縮小された場合、物価は50円です。パンは1個の値打ちしかありませんが、貨幣が縮小されただけで、50円の価値しかありません。しかし、お金からいうと50円出せばパン1個が買えるので、お金の価値が上がったことになります。これをデフレといいます。
商品の製造総数 通貨の総発行量   パン1個の物価 デフレ・インフレ
パン1個 50円 50円 デフレ
       
パン1個 100円 100円 均衡
       
パン1個 200円 200円 インフレ

インフレ(通貨膨張)で元禄バブル
紀文などの登場・元禄繚乱文化
 将軍綱吉のインフレ(通貨膨張)政策で、商品経済・貨幣経済が発展し、元禄経済はバブル期を迎えたことも事実です。そして、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門、淀屋辰五郎などは、綱吉の公共事業に食い込み、豪商が誕生したことも事実です。
 バブル経済・豪商から華やかな元禄文化(元禄繚乱)が開花したことも事実です。

 紀伊国屋文左衛門こと紀文は、紀州みかんで大金を得て、その金を有効に使い(賄賂)、側用人柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武らに接近したと言われています。それにより、上野寛永寺根本中堂の造営を請負って50万両の巨利を得たか、永代橋も請け負ったと言われています。
(1)「江戸の吉原を総揚げにした」というのです。当時、吉原には2000人の遊女がいました。それを1人で買いきったのです。その後、「大騒ぎ、五丁に客が、一人なり」という川柳がはやりました。五丁とは吉原のことです。
 (2)文左衛門は、「今年は、江戸に入る前に初鰹を吉原で食べたい。金はいくら使ってもよい」と知人の重兵衛に頼みました。重兵衛は、鰹の荷をすべて押さえ、文左衛門を呼びました。しかし、大勢の客を連れてきたので、1本の鰹あっという間に無くなりました。文左衛門が、「次は無いのか」と言っても、重兵衛はなかなか次を出しません。そこで、文左衛門が「何故、次を出さないのか」と問うと、重兵衛は「鰹はこんなにありますが、初鰹というのは1本だけです」と答えたので、文左衛門は、その機知に感心して、褒美に五十両を重兵衛に与えたといいます。
(3)茂左衛門が、遊女たちと吉原で雪見酒で楽しんでいました。これを知った文左衛門は、庭に大金を撒いて遊女に拾わせました。茂左衛門が楽しんでいた雪は、そのために消えてしまったということです。 

 その他には奈良屋茂左衛門と淀屋辰五郎がいます。
(1)茂左衛門は、吉原で遊んでいる有名な遊び人に、蕎麦を一杯贈りました。有名な遊び人は、豪商の茂左衛門がわずか蕎麦一杯を贈ったことが気になりました。そこで、調べると、江戸中の蕎麦屋を買い占めて店を閉じさせて、有名な遊び人に贈っていたのです。わずか一杯ですが、江戸中で一番高い蕎麦だったのです。
(2)茂左衛門は、皆をびっくりさせようと大きな饅頭を作りました。しかし、階段が邪魔で入りません。そこで、階段を壊して饅頭を中に入れ、たくさんのお金を使って、その階段を修理しました。
(3)辰五郎は、天井にビロードをはり、その中に水をいれ、そこに 金魚を飼いました。多くの人を招待し、下から天上に吊るしてあるビロードの金魚鉢を眺めさせて、暑気払いをしました。

歴史はどの視点で見るのでしょうか
(1)庶民の立場で見る
(2)権力者の立場で見る
(3)両方の立場で見る
*解説1:最近、将軍綱吉と側用人柳沢吉保が抜擢した勘定吟味役の荻原重秀の貨幣改鋳は、それほど庶民の生活への影響は大きくなかった。その根拠は「貨幣改鋳後11年間のインフレ率は名目で年3%だった」と指摘する学者(金沢大学村井淳志教授『勘定奉行荻原重秀の生涯』)が出て来しました。
 村井氏は、さらに「商人たちは貨幣価値の下落というリスクに直面し、金銀の退蔵が減少し貯蓄から投資へという流れが生じた」と経済構造の変化にも注目しています。
 歴史を庶民の視点で見るのか、権力者の視点で見るのかによって、解釈は異なってきます。以前は庶民の立場で見る傾向が強すぎたため、現在は、その反動で、権力者の立場で見ようとする動きが強いようです。
*解説2:高校の教科書では、両方の立場からの記述をしています(山川出版社『詳説日本史B』)。
(1)「質のおとった小判の発行増で幕府は多大な増収をあげたが、貨幣価値の下落は物価の騰貴をひきおこし、インフレーションを招いて人びとの生活を圧迫した」
(2)「幕政の安定と経済のめざましい発展のもとで社会が成熟し、武士や有力町人をはじめ、民衆にいたるまで多彩な文化がめばえた。この時期の文化を元禄文化とよぶ」

史料(3)
(1)紀伊国屋文左衛門は材木屋を家業として、世に聞こえし豪家也。性活気にして、常に花街雑劇に遊びて任侠をこととし、千金をなげうちて快しとする。故に時の人紀文大尽と称して嫖名一時に高し、宝永の頃までは本八丁堀3丁目すべて一町紀文が居宅となり、毎日定まりて畳さし来りて畳をさす。こは客をむかふる度に、あたらしき畳をしきかえへるゆゑとぞ。此一時をもってその豪富なるを知るべし(山東京伝『近世奇跡考』の「紀文伝」
(2)「大門を八丁堀の人が打ち」 (『誹風柳多留』)

庶民の幕府への不満
誰かスカッとするような出来事を期待
 インフレーションの正しい説明は「商品量に対して通貨の量が必要以上に増発され、貨幣価値が下落し、値が上昇する状態」とすべきです。
 幕府(政府)は、通貨を大量に発行して、貨幣価値を下げ、膨大な出目(利益)を得る政策を行います。
 その結果、病気や老後に備えていた貯金が目減りして行きます。

 庶民にとってはインフレで大いに悩まされ、幕府への不満が渦巻いていました。
 つまり将軍徳川綱吉・側用人柳沢吉保の時代に人々は窒息するような息苦しい状態に置かれていたということである。人々は綱吉に対して、誰かスカッとするようなことをやることを期待していました。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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