home back next

平成20(2008)年3月14日(第279号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(第19巻)

江戸の不満(2)─生類憐みの令
犬・蚊より人命が軽視された時代

将軍徳川綱吉
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
最近、生類憐みの令が見直されているって?
生類憐みの令
 東京工業大学教授の山室恭子氏は、「生類憐みの令の目的は、戦国時代の殺伐とした風潮を一掃することにあった」と主張しています。
 徳川綱吉の時代は、殺伐とした時代だった。綱吉の死後十数年目には「4代将軍家綱の時代には、月に2、3回は試し切りがあった。世の中が慈悲深くなったのか、近年はまったくお目にかからない」と老人が述懐するほどに穏やかな時代になったと言うのです(『黄門さまと犬公方』)。

最新の学説を、大石学教授にお聞きしました
山室恭子説・井沢元彦説は対象外
意図より、結果を重視
 そこで、さらに、東京学芸大学教授の大石学氏に、色々とお聞きしました。
(1)幕府の公式記録である『徳川実紀』には、戦国時代以来の殺伐とした風習を改め、将軍徳川綱吉の徳を全国に示そうとする意図から発したとしています。
(2)将軍綱吉の側用人である柳沢吉保は、綱吉の徳を讃えるために、荻生徂徠らに『憲廟実録』を編纂させましたた。それには、庶民の仁心を願って発布されたものとしています。
(3)塚本学氏は、国立歴史民俗博物館「名誉教授で、『御当代記 将軍綱吉の時代 戸田 茂睡』の校注者です。塚本氏は『生類をめぐる政治−元禄のフォークロアー』で、同時期に展開された鉄砲改めや儒学の普及など一連の政策とあわせて、綱吉が国民の庇護者・管理者として武力を独占し、社会の安定化をめざしたと評価しています。
(4)綱吉が目指したのは、国民の教化を通じて戦国の遺風を断ち切り、社会の「平和」「文明化」を徹底することでした。

 大石学氏は、「綱吉の意図にもかかわらず、生類憐みの令は年とともに頻発・強化され、民衆生活を大きく規制・圧迫していった」と指摘します。
 綱吉の意図はどうあれ、庶民はそれをどう受け止め、どう感じたのでしょうか。
 史料(1)の(1)。尾張藩士朝日文左衛門重章が「おそれてびくびくする江戸の様子」を描いています。
 史料(1)の(2)。同じ朝日文左衛門が「この頃、江戸千住街道に犬を2匹磔にし、札にはこの犬は将軍の威を借りて諸人を悩ますので、このように処分したとありました。また、浅草の辺りでは、犬の首を切り、台の載せました。幕府は、この犯人を密告した者には金20枚を与えると言っているそうだ」と江戸庶民の反感・抵抗の姿を描いています。
 史料(1)の(3)。国学者の戸田茂睡が「犬に対して人間が怖気づいたり、恐れる様は、貴人や高位の人に接するのと同じである。打ったり叩いたりすることは別として、”お犬様”と言ったりするものだから、段々犬も増長して、人間を恐れず、道の真ん中に横たわって寝たり…もし、犬の手足を怪我させるようなことがあれば、外科に診せて、養生・治療を加える」とお犬さまの状態をリアルに表現しています。
 史料(1)の(4)。慶長から元禄にいたる幕府の法規集で「生類憐みの令については以前から仰せ出されている所、下々ではこのお触れを知らないのか、日頃、怪我をした犬が度々見かける。けしからんことである。今後、怪我をさせて犬については、犯人がはっきりして、よそから発覚した場合、町全体の落度とする。ならびに、辻番人の内で犯人を隠したりしたことが分れば、組全体の落度とする」とあります。生類憐みの令を守らず、犬を怪我さす者の多く、その犯人を隠す辻番人もいたことが分ります。

史料(1)
(1)元禄六年一〇月条、江戸の有様戦々兢々たり(『鸚鵡籠中記』)
(2)頃日、江戸千住海道に犬を二疋磔置く。札に此の犬、公方の威を仮り諸人を悩すに仍って此の如く行う者也。又は浅草の辺に狗の首を切り、台にのせ置く。御僉議として黄二十枚かかる(『鸚鵡籠中記』)
(3)犬に人のおぢおそるる事、貴人高位の如し、うちたゝく事はさし置いて、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもまごりつきて、人をおそれず、道中に横たハりに臥して…・もし手足をそこぬる事あれバ、外科をかけて養生治療をくハふる(『御当代記』)
(4)生類憐憫の儀、前々より仰せ出され候ところ、下々にて左様これなく、頃日疵付き侯犬共度々これあり、不届きの至に侯。向後、疵付き候手負犬、手筋極り候て、脇より露見致し候はゞ、一町の越度たるべし。并びに辻番人の内、隠し置き、あらわるゝにおいては、相組中越度たるべき事。
 戊五月廿三日(『御当家令条』)
詳細は忠臣蔵新聞第33号を参照

生類憐みの令により殺伐とした気風が解消は早計?
(1)慶安の変・承応の変以降、戦乱らしきものはなし
(2)殉死・仇討ちの禁止、末期養子の禁緩和
(3)生類憐みの令がなくとも、殺伐として気風は解消
(4)高校教科書では既に扱っており新説でも何でもない
 綱吉の意図はどうあれ、庶民が困り、不満を持っていたことが分ります。
 また、生類憐みの令により、殺伐とした気風がなくなったという評価は早計ではないでしょうか。
 高校の教科書では、既に「綱吉はまた仏教にも帰依し、生類類憐みの令を出して、犬を大事にし、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態や、他人の飼犬までも殺生することを辞さない社会に不満をいだくかぶき者などの存在を、戦国遺風ともども断つことにもなった」(山川出版社『小説日本史B』)と扱っており、新説でも何でもありません。


中野村の犬小屋の実態
えさ代1匹米2合・銀2分×8万2000匹=9万8000両
その税は庶民が負担
中野村の犬小屋跡
 元禄8(1695)年10月29日、幕府は、増加した野犬を収容するために、中野村に犬小屋を完成させました。広さは16万坪で、25坪の御犬小屋が290棟、7坪半の日避け場が295棟、小御犬養育所が459箇所もあったといいます。
 大久保村にも犬小屋を建てて野犬を収容しています。
 犬奉行として、綱吉側近の米倉昌尹と藤堂良直が任命されました。
 犬1匹の費用が1日に米2合、銀2分でした。最も多い時期で8万2000匹の犬が収容されたといいますから、1年にして9万8000両が消費された事になります。
 犬小屋に収容しきれない犬は、周辺の村々に預けられ、幕府から1匹につき1年に金2分ずつの養育金が支払われたといいます。

 犬小屋の経費は、庶民に負担させられました。
 江戸の町民は、間口1間につき金3分づつ負担しました。間口が5間の家では、5間×3分=15分(金3両3分)も負担させられました。
 関東諸国の民も、犬扶持として高100石につき1分ずつ負担し、豆、藁、菰なども供出させられました。

庶民の幕府への不満(1)
 宝永6(1709)年、太政大臣の近衛基煕は、「諸国の人民は将軍綱吉が死んだことを聞き、内心悦びをかみしめているだろうか」と、将軍綱吉の死を内心歓迎している様を描いています(史料(2))。
 幕府の公式記録である『徳川実紀』には、生類憐みの令があまりにも厳しくなった理由として、禁令に背く者が後を絶たず、幕府の役人たちがうまく対応しなかったため、禁令が次第に厳しくなり、庶民が苦しんだとしています。
 『御当代記』は、戸田茂睡が延宝8(1680)年5月の徳川綱吉将軍就任から元禄15(1702)年4月までの編年体の記録です。江戸庶民の風評が分る貴重な史料です。そこには、生類憐みの令が心外の結果を生んだのは、柳沢吉保らの責任であると書いています。

史料(2)
 諸国人民此の凶事を聞き、内心悦びを含むもの歟(『近衛基照日記』)

独裁政治の恐怖
水戸黄門ですら意見できず
廃止は綱吉死後の10日目
 正保3(1646)年1月8日、徳川綱吉が生まれました。
 延宝8(1680)年7月27日、徳川綱吉が将軍の宣下を受けました。
 貞享2(1685)年7月、「犬猫をつないではならない」というお触れが、生類憐みの令の最初とされています。
 元禄13(1701)年12月6日、徳川光圀(水戸黄門)が亡くなりました。生類憐みの令に嫌悪感を抱いた水戸黄門さんは、将軍綱吉に犬の毛皮を長持に一杯送りつけ、悪法を改めさせたと言うエピソードがあります。
 宝永6(1709)年1月10日、将軍徳川綱吉が亡くなりました。この時、綱吉は、側用人の柳沢吉保を枕元に呼んで「生類をいたわるよう」にと厳命しました。次の将軍となる徳川家宣と老臣などを呼んで、「生類をあわれむ事、たとえ誤ったことであっても、これのみは100年の後も、余が将軍であった時のように維持することこそ、孝であると考えよ」と述べました(史料(3))。
 まさに、遺言として、100年先までの、残して置くようにと命令したというのです。
 宝永6(1709)年1月20日、徳川家宣は、生類憐みの令を廃止しました。
 宝永6(1709)年5月1日、徳川家宣が将軍の宣下を受けました。

史料(3)
 この時吉保に仰けるはさきに好生の御志あつく、年頃生類いたはるべき事厳命あり。このころ御病中にも、吾と老臣等とを共にめし、我生類をあはれむ事、たとひひが事にもせよ、これのみは百歳の後とても、我世の如くなし置れんこそ、孝とは思ふぺけれと宣ひつる(『徳川実紀』)

庶民の幕府への不満(2)
誰かスカッとするような出来事を期待
@襲いかかってきた犬を切り捨てたために切腹させられた武士がいました。
A自分の家の井戸に野良猫が落ちて死んだという科で、八丈島に流された人もいました。
B頬に止まった蚊を叩いた小姓は流罪、それを見ていて報告しなかった上司は閉門になりました。
C犬を殺した江戸の町人が獄門にされました。
 将軍徳川綱吉・側用人柳沢吉保の時代に人々は窒息するような息苦しい状態に置かれていました。
 だから人々は綱吉に対して、誰かスカッとするようなことをやることを期待していたのです。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

index home back next