平成20(2008)年4月14日(第281号)
ダイジェスト忠臣蔵(21)
将軍徳川綱吉の恐怖政治・改易
大名の改易は45家175万石
旗本の改易は100家余
越後騒動の舞台となった越後高田城 |
元禄15(1702)年12月15日(東京発) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
将軍徳川綱吉の恐怖政治 大名や旗本は、綱吉の改易に恐れおののいていた | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武断政治とは、武力によって専制的に行う政治と定義できます。現実的には、改易(領地没収)と減封という形で表現されます。 反対の用語に、武力を用いず、学問や法制の力によって人民を徳化し、世を治める文治主義政治があります。江戸時代は、儒教的徳治主義で治める政治を文治政治といいます。 一般に、徳川家康から三代将軍の家康までを武断政治といい、四代将軍家綱の時代からを文治政治といいます。この転換の契機となったのが、慶安の変(慶安4=1651年)と承応の変(承応元=1652年)です。 しかし、下の表で見るように、5代将軍徳川綱吉の時には、前代より石高にして倍以上の改易を行っています。改易された旗本家は100家以上に登っています。また、越後騒動に見るように、陰湿というか執拗な綱吉の性格が反映されています。 まさに、綱吉の恐怖政治と言えます。大名や旗本は、恐れおののいていたのです。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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越後騒動のはじまり | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寛永元(1624)年、越前松平家を継いだ10歳の松平光長(祖父は秀康、父は忠直、母は将軍秀忠の三女勝子)が越前北ノ庄より越後高田26万石へ入封しました。 寛文5(1665)年、越後大地震で、藩の重役の小栗正高と荻田隼人が亡くなりました。小栗正高の嗣子は小栗美作で、荻田隼人の嗣子は荻田主馬でした。首席家老の小栗美作は、幕府から莫大な援助を受けて高田城の修復に成功しました。他方、家老の荻田主馬は、三の丸の修復工事に失敗しました。小栗美作はその後の難工事を完成させました。 宝永2(1674)年、松平光長の嫡子松平綱賢(42歳)が亡くなりました。松平綱賢には世継がいませんでした。そこで、3人が候補になりました。 (1)永見万徳丸(17歳)は、松平忠直の次男である永見市正の遺児です。 (2)永見大蔵(50歳)は、松平忠直の三男です。 (3)小栗大六は、松平忠直の長女「おかん」と首席家老の小栗美作の間に生まれました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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越後騒動を大老酒井忠清が裁く 越後騒動を綱吉がさらに裁きなおす異常な行動 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平光長の世継となったのが永見万徳丸で、将軍徳川家綱から綱の字を与えられ、松平綱国と改名しました。松平綱国を支えたのが、首席家老の小栗美作でした。 その後、藩の財政が悪化すると、家老の荻田主馬を中心に、反美作派が結成され、小栗美作に反対されて藩主になれなかった永見大蔵も加担しました。その数は890人に達したといいます。逆に美作派は130人だったといいます。 首席家老の小栗美作から報告を聞いた大老酒井忠清は、永見大蔵ら首謀者を処分しました。 延宝8(1680)年、将軍徳川家綱が危篤状態になりました。世継を巡って、徳川家綱の弟である館林藩主の徳川綱吉と家綱の甥(家綱の次弟綱重の子)である甲府藩主の徳川綱豊が候補に挙がりました。この時、大老の酒井忠清は「鎌倉幕府の先例に従い、京都から有栖川宮幸仁親王(父は後西天皇、母は松平光長の妹寧子)を将軍に迎えよう」と提案しました。 この提案に対して、老中の堀田正俊が「血筋のお方がいるのに、鎌倉幕府の先例に従う必要はない」と反対し、他の老中も堀田正俊の正論を支持したので、徳川綱吉が将軍と決定しました。 延宝8(1680)年、徳川綱吉が5代将軍になりました。その3ヵ月後、前の大老である酒井忠清が亡くなりました。綱吉は、反美作派から出されていた越後騒動の再審を取り上げ、小栗美作・大六父子は切腹、永見大蔵・荻田主馬は八丈島に遠島と決定しました。さらに、松平光長を伊予松山の松平久松家にお預けとし、越後高田藩を改易(取り潰し)に処しました。 つまり、徳川綱吉は、酒井忠清の越後騒動の決着を再度仕切りなおすという異常な行動に出たことになります。 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)