平成20(2008)年5月14日(第282号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(22)

分裂の危機を救った浅野大学処分

吉良邸討ち入りを正当性を後世に残すために、往復書簡を保存する堀部安兵衛
安兵衛は往復書簡を細井広沢に預け、討ち入り同志の糾合する(写真は赤穂花岳寺の残る広沢の書)

 元禄15(1702)年6月12日(東京発)
過激派の堀部安兵衛は、公約派の大石内蔵助を抜いて討ち入りを決意
赤穂浪士最大の危機迫る
 堀部安兵衛は、大石内蔵助の持久策に耐えられず、10人で吉良邸に討ち入り主君の仇を討てると決心しました。
 史料(1)の口語訳です。
 真実の者10人もいれば、本望は達することが出来る。気心の知れた者を集めれば10人余にもなるだろう。なまじ広く声をかけた場合、色々な意見の者が集まり、取りまとめるに困るだろう。
 史料(2)の口語訳です。
 山科の内蔵助さんに相談してから群を離れるというのは一理ある。しかし、どれほどの理を尽くしても内蔵助さんは動くとは思えない。だから相談には及ばないと思う。むしろ離れた方が益が多いと思う。

史料(1)
(1)真実ノ者拾人モ有之候ハ、心安本望ハ可相達ト存候ナマシヰ広ク御沙汰候ハヽ色々ノ了箇計付畢竟ハ無事ノ取繕モノニ可被思召候
(2)離候方ニ益多ト被存候

 元禄15(1702)年6月18日(東京発)
堀部安兵衛は、往復書簡を細井広沢に預ける
その意図は討ち入りの正当性を主張
 堀部安兵衛は、大石内蔵助や同志から来た手紙を保管していました。
 堀部安兵衛は、大石内蔵助や同志に出した手紙の写しを保管していました。
 保管していた意図は、吉良邸に討ち入りするが、失敗するかもしれない。成功しても生きて帰れない。後世、安兵衛らの意図を誤解してあざ笑う者がいるかもしれない。そこで、討ち入りの意図を明確にするために往復書簡を保管していました。
 堀部安兵衛は、いよいよ、討ち入りを決意して、同志を糾合するために上方に出る前、この往復書簡を細井広沢に預けました。広沢は、側用人柳沢吉保の儒学の先生でした。

浅野大学が処分されて、赤穂浅野家の再興ならず
大学処分で、過激派と公約派が団結し、討ち入りへ
 元禄15(1702)年7月18日(東京発)
 赤穂浪士にとって最大の分裂の危機が迫っていました。
 まさにそれを回避するかのように、幕府は、大石内蔵助との公約を破棄して、浅野大学を広島本家お預けとしました。つまり、内蔵助が望んだ浅野家再興を認めなかったのです。
 史料(2)の口語訳です。
 浅野大学は、浅野内匠頭が生存中内匠頭の養子になっていた。内匠頭が幕府に対し不届な働きによって切腹させられた上は、そのまま差し置くことは出来ず閉門を命じていた。この度その閉門は差しゆるすが、知行の3000石は召し上げ、浅野本家(浅野綱長さん)の広島に引き取ってもらう

史料(2)
 大学事、亡内匠頭存命中、世嗣ぎに相成り居り候者にこれあり。内匠頭公儀に対し奉り、不届き相働き切腹仰せ付けられ候上は、其まま擱かれ難く、今般閉門差免され、知行召上げ候につき、安芸守本国へ引取り申すべし

内蔵助の内入り意図は、幕府の再度の裁き
 大石内蔵助は、幕府が公約を果たさなかったことで、討ち入りにより、再度、幕府の裁きを受ける決意をしたのでした。
 討ち入りという点で合意した堀部安兵衛と内蔵助は、堅く手を握り合うことになりました。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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