平成20(2008)年6月14日(第283号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(23)

いざ討ち入りへ

『赤穂義士誠忠畫鑑』より

 元禄15(1702)年12月14日(東京発)
脱盟者も誰一人密告せず
 大石内蔵助は、討ち入りの備えて、同志の淘汰していきました。
 ここで不思議なことは、色々口実を設けて脱盟していった者は多数に上りましたが、誰1人として、内蔵助らの討ち入りを密告した者がいないということです。
 彼らも陰の協力者と言えるのではないでしょうか。

吉良上野介の在宅情報を漏らしたのは
上野介の国学の先生とお茶の先生でした
 大石内蔵助は、吉良上野介の在宅情報を必死で集めました。
 その結果、上野介の在宅情報を漏らしたのは、上野介の国学の先生である羽倉斎でした。羽倉斎は後に荷田春満という大学者になる人物です。
 もう1人が上野介のお茶の先生である山田宗匠でした。
 家庭教師と生徒の関係です。家庭教師が生徒の個人情報を、命の狙う敵に知らせるということです。両者はどういう関係にあったのでしょうか。不思議な気がします。

史料(1)
 尚々彼方の儀は、14日の様にちらと承り候

主君浅野内匠頭の無念を引き継いで
大石内蔵助らは吉良邸に討ち入る
浅野内匠家来口上
 浅野内匠家来口上を見ると、大石内蔵助らの討ち入り理由がよく分ります。
 井沢元彦氏は、「本当は浅野内匠頭が乱心だったのを、宿意(積み重なった恨み)にしてしまったことを怒って、討ち入りした」と暴論を展開しています(『文治政治と忠臣蔵の謎』)。
 しかし、口上を読むと、「主君浅野内匠頭は、梶川与惣兵衛が組みとめたので、吉良上野介を討ち取ることが出来なかった。主君の恨みを晴らしたいだけです」とあります。
 つまり、乱心と言えば、お家は安泰の時代に、身を捨て、家を潰してでも、宿意を果たそうとした意志を継いだのです。

 史料(2)の(1)の口語訳です。
 伝奏ご馳走役の儀について、吉良上野介殿へ意趣を含みおられた所、殿中においてその場で避けがたい儀がございましたのか、刃傷に及びました。
 この喧嘩の時、ご同席していて、これを留める方がいて、上野介殿を討ち取ることができず、内匠頭の死に際の無念の心情は、家来どもとして耐え忍び難いことでございます
 史料(2)の(2)の口語訳です。
 ただひとへに亡主の意趣を継ぐ志だけでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がござれば、お上に見せて頂くようお願いします。かくのごとくございます。以上

史料(2)
(1)伝奏御馳走之儀付吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、於 御殿中当座難遁儀御座候歟及刃場(傷)候、
 右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之上野介殿討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍仕合御座候
(2)偏継亡主之意趣候志迄御座候、私共死後若御見分之御方御座候は奉願御披見如斯御座候、以上
            浅野内匠頭長矩家来
  元禄十五年極月日      大石内蔵助(以下人名略)

吉良上野介の北隣の証言”何も知りません”
両者は、どんな関係だったのでしょうか
@堀部安兵衛宅A杉野十平次宅B前原伊助宅C土屋邸D本多邸E鳥居邸F牧野邸
 討入り後、幕府役人が吉良邸周辺の旗本を尋問しました。
 それに対して、吉良邸の北隣の旗本である土屋主税は、「火事装束の様に見えましたが、暗かったのでよく分りませんでした。これ以外は何も存じません」と答えています。
 土屋主税は、火事装束は確認しています。しかし、討ち入りを知っていて、何もしなかったら、責任を問われかねないので、「何も存じません」と責任逃れの答弁をしています。
 隣の吉良上野介とどんな関係だったのか不思議な気がします。

史料
 火事装束体相見申候、尤闇く候故碇と分り不申候、此外ハ何ニ而も不存候

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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