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平成20(2008)年7月14日(第284号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(24)

寺坂吉右衛門さんは義士か?
立派な義士にて候

泉岳寺前のうわさ(挿絵:寺田幸さん)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
12月15日の三村次郎左衛門さんの証言
「吉右衛門さんという者はその夜まで居たので、吉良邸に討ち入りました」
 昔から、寺坂吉右衛門さんのついては、47士説・46士説の立場から、色々な説があります。
史料(1):12月15日の記録(三村次郎左衛門さんの母宛書状)
 「14日の夜、吉右衛門さんという者はその夜まで居たので、吉良邸に討ち入りましたが、吉右衛門さんのことを聞いたのですが、見えませんでした。立ち退いたように聞いています」
史料(1)
 「其夜吉右衛門と申者其夜迄居候間、屋敷へ参候而相たつね候得は見へ不申候、たちのき申候(由ニ)御座候」(母宛の三村次郎左衛門書状)

12月15日夜の吉田忠左衛門さんの矛盾する証言
「吉良上野介殿を討ち取る迄は吉良邸にいました」
「吉良邸門前より駆け落ちした」
史料(2):12月15日夜の記録(大目付の家中の尋問に対する吉田忠左衛門さんの回答)
 「忠左衛門さんは、「寺坂吉右衛門という足軽は私の組の者です。連判を望んだので、この節、同道いたしました。…吉良上野介殿を討ち取る迄は吉良邸にいました。その後見えなくなりました。きっと欠落したのであろう」と答えました。
 それを聞いた大目付の家中の者は、「寺坂吉右衛門さんは、広島にお預けの浅野大学殿へ連絡するため、在所へ飛脚に派遣されたのだろう」と推測したということです。
史料(3):12月15日夜の記録(忠左衛門さんの娘婿の伊藤治興さんの子治行さんの記録)
 「仙石伯耆守さんの屋敷では、私(吉田)の組の者1人が吉良邸門前より駆け落ちしたと申し上げたところ、身分の軽い者なのでお構いなさるなと言われました。追って連絡を致します」とあります。
史料(2)
 「寺坂吉右衛門と申足軽我等組ニて候、連判ヲ望候故、此節召連申候、慥ニ塀ヲ乗内ニ入候、上野介殿討留申迄ハ居申候、其後見へ申さず候、定而欠落仕たるニてこれ有るべし由 忠左衛門申
 但此者ハ大学殿へ右之到来之ため在所へ飛脚ニ遣たると御役人衆御推量之由」(『浅野浪人敵討聞書』)
史料(3)
 「仙石伯耆守様にては、吉田忠左衛門私組之者壱人上野介様御門前より駈落仕候由申上候処、軽キ者之儀御構無之旨被仰候由追而承伝候也」(『伊藤十郎太夫治行聞書覚』)

吉田忠左衛門さん 寺坂吉右衛門さん
12月16日の吉田忠左衛門さんの証言
「この者は不届者です。重ねて吉右衛門の名を言わないでほしい」
史料(4):12月16日の記録(細川家の世話役堀内伝右衛門さんに対する吉田忠左衛門さんの回答)
 「吉田忠左衛門さんは、私ども世話役の方に寄ってきて、申された話は次のようなものでした。吉右衛門の話が出てくれば、この者は不届者です。重ねて吉右衛門の名を言わないでほしいと言われました。私(堀内)は、”吉右衛門さんも、その夜、皆と一緒に吉良邸に来て、その後欠落したらしい”とかねがね皆が言っています。しかしながら、”無事に仇を打ち破ったことを知らせる使いなどを命じられた”などとも色々言っています。吉田忠左衛門さんが”吉右衛門さんを不届者と言い、二度とこの名を聞きたくないと言っている”事を不審に思います。本当に欠落したのかも知れない」
史料(4)
 「吉田忠左衛門我等側ニ寄被申被咄候ハ…吉右衛門事申出候得は此ものハ不届者にて候、重而名を被仰被下間敷と被申候、吉衛門事も其夜一列一同ニ参候て欠落いたし候よし兼何も被申候、然共無恙仇を打被申たる儀を知らセの使なと被申付候なとゝいろ申候へとも右之通ニ被申候事不審ニ存候、実の欠落かとも存候事」(『堀内伝右衛門筆記』)

12月24日の大石内蔵助さんや原惣右衛門さんらの証言
「14日の暁(未明)迄は居ましたが、吉良邸には来ませんでした」
史料(5):12月24日の記録(内蔵助さん、惣右衛門さん、十内さんの3人から寺井玄渓さん宛手紙)
 「寺坂吉右衛門については、14日の暁(未明)迄は居ましたが、吉良邸には来ませんでした。身分の軽い者ですから、仕方がないと思います」とあります。
史料(5)
 「寺坂吉右衛門儀十四日暁迄在之処、彼屋敷へハ不相来候、かろきものゝ儀不及是非候、以上」(『堀内伝右衛門筆記』)
12月24日の原惣右衛門さんら証言
「15日の未明に吉良邸に押し込む直前までおりました」
史料(6):12月24日の記録(原惣右衛門さんは家来口上から吉右衛門さんの名を削除)
 細川綱利家に移された原惣右衛門さんは、堀内伝右衛門さんから、「浅野内匠家来口上」の写しをもらいたい言われました。そこで、原さんは、赤穂浪士46人の名を書いた「家来口上」を堀内さんに渡しました。その写しのあとがきに、次の様に付記しています。
 付記には、「46人以外に、原文の家来口上には、寺坂吉右衛門という吉田忠左衛門組の足軽1人を載せています。吉右衛門は15日の未明に吉良邸に押し込む直前までおりましたが、討ち入り時刻には逐電して、見えませんでした」とあります。
史料(6)
 「此外ニ本書ニハ寺坂吉右衛門と申吉田忠左衛門組足軽壱人載之候、此者十五日之暁彼屋敷へ押込候前迄在之処、其時刻致逐電不相見へ候」(原惣右衛門自筆「浅野内匠家来口上写し」あとがき)

1703(元禄16)年2月3日の吉田忠左衛門さんの証言
「欠落したと申し上げております。若し問い合わせがあれば、その通りとご挨拶するように」
史料(7):1703(元禄16)年2月3日の記録(吉田忠左衛門さんから娘婿の伊藤治興さん宛て暇乞い状)
 「大目付の仙石伯耆守様屋敷にて、去年の12月15日に次の様に書いたと言います。私(吉田)の組の者1人が欠落したと申し上げております。若し問い合わせがあれば、その通りとご挨拶するように…」
史料(7)
 「伯耆守(仙石久尚)様ニて旧臘(去年12月)十五日ニ右書付候内私組之者壱人欠落いたし申候と申上候、其通と御挨拶ニ候」(『伊藤十郎太夫治行聞書覚』)
吉田忠左衛門さんらの揺れる証言
(1)初期の頃は、「吉良邸に討ち入った時はいた」
(2)その後、「討ち入る前に逐電した」と変化
(3)切腹直前、「逐電扱いにしているから、そのようにせよ」という遺言
(4)忠左衛門さんが最後まで吉右衛門さんをかばった本心は?
(5)意志を継いだ吉右衛門さんは、討ち入り同志の生き証人・歴史の証人

寺坂吉右衛門さんは、立派な義士であり、
通説通り、「赤穂義士は47士にて候」
詳しくは忠臣蔵新聞(251号)を参照してください。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『赤穂義士論』(赤穂市)

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