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平成20(2008)年8月14日(第285号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(25)

「江戸中の手柄」と庶民の評価
名古屋にまで噂が拡大
大名も「勇士」と賞賛

江戸中のうわさ(挿絵:寺田幸さん)
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
討ち入り前後、江戸の庶民は、大石内蔵助ら47人の行動を支持
当時から人気があったので、膨大な史料が保存されました
 京都から来ていた人の手紙では、この討ち入りを、自分たちの手柄のように喜んでいる江戸庶民の姿が描かれています。
 当時の法令からしても、大石内蔵助さんら47人の行動は、徒党です。しかも、集団で吉良家の人々を殺害しています。これは完全に獄門の罪に値します。
 江戸時代の獄門のやり方はどういうものだったのでしょうか。
 斬首した首を水で洗って血を洗い流し、空俵に入れて晒場へ運びます。晒場には、高さ4尺の獄門台と、非人番小屋があります。首をのせた獄門台のそばには、その者の罪状と刑罰を記した「捨札」が立てられます。首は3日2夜さらされ、そのあいだ、非人が昼夜番小屋にいて番をします。
 捨札は、首が取り除かれたあとも30間その場所に残されました(井上和夫著『残酷の日本史』)。
 討ち入り前から、江戸の庶民を討ち入りを支持し、討入り後も、その姿を変えませんでした。
 その結果、当時からの史料がたくさん残ることになりました。恣意的に解釈されないのが、忠臣蔵の物語ということになります。
史料
 「江戸中之手柄ニ御坐候」

江戸の室鳩巣、江戸の様子を京都の稲生若水に手紙を出す
 儒学者の室鳩巣は、京都の稲生若水に次のような手紙を出しています。
 主君浅野内匠頭様の仇である吉良上野介を討ちったということである。今までに聞いたことがない。忠義の気が満ち満ちている。赤穂では、このような義士を育てた風土の厚さもこれでよく分ります。
史料
 「君仇吉良上野介殿を討取申侯儀、前代未聞、忠義の気凛々。赤穂士風之厚も是に而相知れ…」

江戸中のうわさ(挿絵:寺田幸さん)
尾張の朝日文左衛門さんの日記
遠く離れた江戸の討ち入り事件を記録
 江戸で起きた討ち入り事件が名古屋に伝えられています。
 全国的にも討ち入り事件が拡大していることが分ります。
史料
 「吉良上野介首ヲ取リ芝専岳寺江立退」(『鸚鵡篭中記』

熊本の細川綱利、罪人の大石内蔵助らを「勇士」と賞賛
 大石内蔵助さんらを罪人として預かった熊本藩の藩主細川綱利は、誰はばからず「勇士」として賞賛し、特別なもてなしをしました。
史料
「十七人の勇士共」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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