home back next

平成20(2008)年9月14日(第286号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(26)

四十六士の処分をめぐる幕閣の激論

四十六士の処分をめぐる幕閣の激論(挿絵:寺田幸さん)
 元禄16(1703)年2月1日(東京発)
徒党の罪は極刑の獄門
 当時、2人以上で相談して、悪事を働くことを徒党と言いました。
 江戸幕府は、徒党の罪を特に重くしていました。徒党の罪は、獄門でした。獄門とは、打ち首の後、その首を獄門台に載せて3日2晩、見せしめとして晒しものにしました。「晒(さら)し首」とも「梟首(きょうしゅ)」とも言います。梟首とは、梟の首のことですが、以前、梟の死骸を木の上に晒して、小鳥脅しに使っていました。そのことから、死骸を台の上晒すことを梟首と言うようになりました。
 葬式を出す遺族にしても、首なしではいたたまれなかったでしょう。
 一族の名を記した罪名と共に、公開されては、一族もいたたまれなかったでしょう。
 高田郡兵衛の伯父は、「5人以上で相談すればそれは既に徒党である。後日、一家は滅亡になることは必定である」と説得しました。その結果、郡兵衛は堀部安兵衛らとの徒党から脱盟しました。
史料
 「五人以上申合仕儀ハ既ニ徒党、後日一家及ビ滅亡候義必定也」

獄門が当然の大石内蔵助らの行為
林信篤や室鳩巣らの助命運動
 獄門が当然の大石内蔵助らの行為は、林信篤や室鳩巣らによって「武士の鑑」として、助命運動にまで発展しました。
史料
 「君仇吉良上野介殿を討取申侯儀、前代未聞、忠義の気凛々。赤穂士風之厚も是に而相知れ・・。当地なども此儀のみ沙汰仕侯。其御地(京都)輿論いかが侯哉」

太宰春台や荻生徂徠らは
「法は法、罪は罪」を主張
 他方、太宰春台や荻生徂徠らは、幕府の決定に異を唱えて、犯罪を犯しては、秩序が保てないという論法を展開して、「法は法、罪は罪」を主張しました。
史料
 「士の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、かれらが忠義を軽るんぜざるの道理、もっとも公論と云うべし」

時の最高権力者である将軍徳川綱吉
士の礼をもって切腹を命令
 徒党による獄門が当然の大石内蔵助らの行動を庶民や学者が支持しました。
 そのことで将軍徳川綱吉は非常に苦悩しました。
 最後に、荻生徂徠の意見を取り入れ、「義は義、罪は罪」として、士の礼をもって切腹を命令しました。
史料
 「内匠家来四十六人徒党致し、上野を討侯儀・・・重々不届侯、これに依り切腹申付者也」

大石内蔵助らの行為
将軍徳川綱吉をして喧嘩両成敗に走らせる
 同時に、将軍徳川綱吉は、吉良家に対する処分も発表しました。
 吉良家はおとりつぶしとなり、吉良上野介の嗣子義周は諏訪にお預けという内容です。
 大石内蔵助らの行為が将軍徳川綱吉をして喧嘩両成敗に走らせたのです。
史料
 上野介を討ち候節、其方仕形不届に付領知被召上、諏訪安芸守へ御預け被仰付候」

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

index home back next