平成20(2008)年10月14日(第287号)
ダイジェスト忠臣蔵(27)
赤穂浪士の遺児処分と赦免
間瀬定八301周忌(金光寺境内の下村家墓所にて) |
写真提供:有賀泰三さん |
元禄15(1702)年2月4日(東京発) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
46人、徒党による大罪で、切腹 縁座の制で、遺児は遠島処分 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元禄16(1702)年2月4日、月番老中の秋元但馬守喬朝は、町奉行の保田越前守宗郷に次のようの遺児処分を申し渡しました。 「その方らの父については、主人・浅野内匠頭の仇を討とうと相談し、46人で徒党して、吉良上野介宅に押し込んだ。その時、飛び道具などを持参し、上野介を討ち取ってしまった。これは公儀(幕府)を恐れない行動であり、不届きであるので、切腹を申し付けた。これによって、倅ども(子どもら)も遠島を申し付ける。 2月4日」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「父共儀 主人の仇を報い候と申し立て、四十六人徒党致し、吉良上野介宅に押し込み、飛道具など持参、上野を討ち候始末、公儀を恐れざるの段、不届に付、切腹申し付く。これに依って伜ども遠島申し付くる者也。 未二月四日」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
非常に軽い遺児処分 遺児は全員で20人 その内、当時15歳以上の遺児のみ4人が遠島処分 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大罪にもかかわらず、遺児処分は非常に軽いものでした。 (1)15歳以上の男子に限り、伊豆の大島に遠島を申し付けられました。 (2)15歳未満の者は、15歳になる迄、遠流が猶予されました。 (3)遠流猶予の者であっても、仏門に入れば、15歳になっても遠島は免除されました。 その結果、遠島の対象者は、吉田伝内(25歳)、村松政右衛門(23歳)、間瀬定八(20歳)、中村忠三郎(15歳)の4人となりました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瑶泉院の尽力 赤穂浪士の遺児の赦免 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瑶泉院(日本TVより『忠臣蔵』より) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仙桂院は、瑤泉院の元に出入りしていた尼さんです。 瑤泉院の依頼を受けた仙桂院は、縁のある増上寺に行って、伊豆の大島に遠島になった遺児の赦免を願い出ました。 宝永3(1706)年8月12日、桂昌院の一周忌にあたり大赦令が出され、大島に遠島の遺児も赦免されることになりました。 9月7日、八丁堀より、仙桂院の元に、「大島遠島の吉田伝内・村松政右衛門が赦免された」という付届けがありました。 9月9日、大島から船が着いた。増上寺に願いによる、寺社奉行に付け届けがあったので、連絡をする。今日、受け取るようにと言ってきました。今日、仙桂院が行って、連れて帰りましたということを、仙桂院より瑶泉院へ申し上げました。の為増上寺へすがり、増上寺から恩赦を顧い出た事により赦免となった。江戸へ着岸した三名の遺児は仙桂院に渡されて、2名は瑤泉院と相談の上洞雲寺で剃髪させた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「宝永三年九月九日、尼仙桂へ八丁堀より付届けこれ有り、大島遠島之両人吉田伝内、村松政右衛門一昨七日御赦免に付、当所へ着船致され候。増上寺之願いに付、寺社奉行中へ付届けこれ有る上、申進ず可くと今日迄己し延べ候。今日御受取りなされ候様にと申来り、今日仙桂参り召連れ罷り帰り候由。仙桂より瑤泉院へ申上げらる」(江赤見聞記) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤穂浅野家は、旗本として再興 大石家は、広島本家で、1500石で再興 すべてを見届けて瑶泉院が没(43歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宝永6(1709)年1月10日、将軍徳川綱吉が亡くなりました。 5月1日、徳川家宣が6代将軍となりました。前将軍の死去により、大赦令が出されました。 8月20日、綱吉死去の大赦により浅野大学の処分が解除されました。 宝永7(1710)年9月16日、浅野大学は安房の国(千葉県)に500石を与えられ、浅野家は旗本として再興しました。 正徳3(1713)年、大石内蔵助の三男の大三郎は、広島浅野家に、父と同じ1500石で召し抱えられ、大石家の再興となりました。 正徳4(1714)年6月3日、瑶泉院が亡くなりました。時に43歳でした。 |
参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)