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平成20(2008)年11月14日(第288号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(28)

赤穂事件と『仮名手本忠臣蔵』

『仮名手本忠臣蔵』
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
『仮名手本忠臣蔵』が忠臣蔵の人気を産んだのではなく
赤穂事件の劇的な物語性が『仮名手本忠臣蔵』の誕生させた
 多くの人は、赤穂事件を忠臣蔵と理解しています。
 厳密には、赤穂事件は史実ですが、忠臣蔵は史実を踏まえた創作・物語です。
 しかし、赤穂事件も加味した忠臣蔵を、広義の忠臣蔵と考えてもいいと思います。
 ただ、『仮名手本忠臣蔵』の成立が忠臣蔵の人気を産んだと理解している人が多くいます。しかし、現実は、そうではなくて、赤穂事件の劇的な物語性が『仮名手本忠臣蔵』の誕生させたと理解すべきです。
 今回は、そのことを検証したいと思います。

赤穂事件
 元禄14(1701)年3月14日、勅使接待役の浅野内匠頭は、江戸城松の廊下において、高家指南役の吉良上野介に刃傷に及びました。将軍の徳川綱吉は、内匠頭を切腹、上野介をお構いなしという決定をしました。
 4月19日、赤穂城が収公されました。
 6月28日、大石内蔵助は、山科に隠居しました。
 8月19日、上野介は、呉服橋門内から本所に屋敷替となりました。
 12月12日、上野介は、隠居が認められました。養子の左兵衛義周は、家督相続が認められました。これで、吉良家の処分がなくなりました。

赤穂事件と『仮名手本忠臣蔵』(1)
 元禄15(1702)年3月、江戸の山村座では、刃傷事件を扱った『東山栄華舞台』が上演されました。内容は、小栗判官を扱っています。
 7月18日、内匠頭の弟の浅野大学は、広島浅野本家に永の預かりとなりました。これで、赤穂浅野家の再興がなくなりました。
 7月28日、内蔵助は、円山会議を召集し、仇討ちを決定しました。
 8月23日、内蔵助は、貝賀弥左衛門・大高源五宛に同志の決意を確認する書状を送りました。
 閏8月8日、進藤源四郎(内蔵助の親類)は、口実を設けて脱盟しました。
 10月、大坂竹本座「傾城八花形」が、第一段に殿中刃傷を仕組んで赤穂事件をあつかった
 11月5日、内蔵助は、江戸に入りました。
 11月29日、内蔵助は、金銀請払帳を瑶泉院付きの用人・落合与左衛門に提出しました。
 12月14日、内蔵助ら赤穂浪士47人は、吉良邸に討ち入り、上野介を討ち取りました。
 12月15日、内蔵助ら赤穂浪士46人(寺坂吉右衛門を除く)は、4大名家にお預けとなりました。

赤穂事件と『仮名手本忠臣蔵』(2)
 元禄16(1703)年1月、江戸の山村座では、討ち入りを扱った『傾城阿佐間曽我』が上演されました。 1月、京都の早雲長太夫座では、討ち入り事件を扱った近松門左衛門作の『傾城三の車』が上演されました。内容は、敵討の苦心や討ち入りを扱っています。しかし、幕府は、上演を禁止しています。
 2月16日、江戸の中村座では、討ち入りを扱った『曙曽我夜討』が上演されました。
 2月18日、幕府は、『曙曽我夜討』の上演を禁止しました。
 3月24日、赤穂浪士46人は切腹、義周は信濃高島城に配流となりました。
 4月27日、赤穂浪士46人の遺児(15歳以上の男子)は、伊豆大島に配流となりました。

赤穂事件と『仮名手本忠臣蔵』(3)
 宝永6(1709)年1月10日、将軍徳川綱吉が亡くなりました。
 5月1日、6代将軍に徳川家宣が就任しました。
 6月、大坂では、紀海音作の『鬼鹿毛無佐志鐙』が上演されました。
 7月16日、前将軍死去による大赦令により赤穂浪士の遺児が赦免されました。
 8月20日、大赦令により、浅野大学が赦免されました。
 宝永7(1710)年6月、大坂の竹本座では、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が上演されました。内容は、足利時代の『太平記』を使って、当時の人物を赤穂事件の人物に比定しています。高師直(吉良義央)、塩冶判官(浅野内匠頭)、大星由良之助(大石内蔵助)、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などです。
 9月16日、浅野大学は新知500石を与えられ、赤穂浅野家が再興しました。
 ?月、『太平記さざれ石』が上演されました。

赤穂事件と『仮名手本忠臣蔵』(4)
『仮名手本忠臣蔵』初演番付(竹本筑後掾番付集より)
 正徳4(1714)年6月3日、内匠頭の夫人瑶泉院が亡くなりました。
 享保17(1732)年、並木宗助(千柳)ら作の浄瑠璃『忠臣金短冊』が上演されました。内容は、「小栗判官」の世界を舞台にしていますが、勘平夫婦の悲劇、由良之助の島原での放蕩、山崎の別れなどが描かれています。
 享保20(1735)年3月、江戸の中村座では、『鎧桜故郷錦』が上演されました。
 延享4(1747)年、京都の布袋屋座では、『大矢数四十七本』が上演されました。初代沢村宗十郎は、祇園町で遊興する大岸宮内を演じて拍手喝采を得ました。
 10月6日、赤穂浪士最後の寺坂吉右衛門が亡くなりました。
 寛延元(1748)年8月14日、大坂の竹本座では、二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。過去の作品の総結集ということもあり、11月中旬までの4カ月の長期の興行となりました。
 12月1日、大坂の嵐座では、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。
 寛延2年(1749)年2月6日、江戸の森田座でも歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。
 3月15日、京都の早雲長太夫座でも歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。
 5月、江戸の中村座・市村座でも歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』が上演されました。
 寛延3(1750)年7月15日、江戸の中村座では、書き替え狂言『仮名手本四十七文字』が上演されました。

赤穂事件と『仮名手本忠臣蔵』(5)
(1)刃傷事件の1年後に、江戸で『東山栄華舞台』が上演されています。赤穂事件の話題が高かったことが分ります。
(2)討入りの翌月、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されています。幕府は上演を禁止しています。権力者が赤穂事件の内容を恐れていたことが分ります。
(3)討入り2カ月後、江戸で『曙曽我夜討』が上演されています。幕府は上演を禁止しています。権力者が赤穂事件の内容を恐れていたことが分ります。
(4)討ち入り7年後、将軍徳川綱吉死去による大赦令で、赤穂浪士の遺児が赦免されました。その頃、大坂『鬼鹿毛無佐志鐙』が上演されています。
(5)討ち入り8年後、大坂で『碁盤太平記』が上演されました。幕府の上演禁止を逃れるため、時代を室町時代に設定し、登場人物も高師直や足利尊氏などに仮託していますが、大石内蔵助は大星由良之助であり、大石主税は大星力弥などですから、誰が見ても、赤穂事件を扱っていることが分ります。
(6)討ち入り12年後、内匠頭の夫人瑶泉院が亡くなりました
(7)討ち入り45年後、赤穂浪士最後の寺坂吉右衛門が亡くなりました
(8)討ち入り46年後、刃傷事件からは47年後、大坂で『仮名手本忠臣蔵』が上演されています。

 赤穂事件の関係者が生存している時に、既に『仮名手本忠臣蔵』の基本が出来上がっていることが分ります。
作者の『仮名手本忠臣蔵』←クリック

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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