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平成20(2008)年12月14日(第289号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(29)

人気の秘密━多くの登場人物
(いろいろなキャラクターの存在)

将軍徳川綱吉も登場 側用人柳沢吉保も登場
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
教科書上の人物が登場します
 日本史の教科書に出てくる将軍徳川綱吉や側用人柳沢吉保も重要な役割として登場します。

文治派の源五右衛門と武断派の安兵衛の対立
公約遵守派の内蔵助と過激派の安兵衛が対立
最期は、内蔵助のブレないリーダー性が勝利をもたらす
公約遵守派の大石内蔵助(A 文治派の片岡源五右衛門(B
武断派で過激派の堀部安兵衛(C
 片岡源五右衛門(B)は、生れつき眉目秀麗で、頭脳明晰でした。主君浅野内匠頭から寵愛を受けて、どんどん出世し、父から受け継いだ100石は、350石に加増されました。おべんちゃらが物言う時代になったことを意味します。
 主君の最期を見届けたのも、源五右衛門でした。

 堀部安兵衛(C)は、父が新発田城の櫓焼失の責任をとって浪人となりました。安兵衛は、剣の修行で仕官しようと、必死で苦労して、高田の馬場の決闘をきっかけに、赤穂藩の堀部弥兵衛の養子となりました。このとき、父の石高は300石でした。
 弥兵衛が隠居したとき、主君の浅野内匠頭から認められた石高は、養父の隠居料50石と安兵衛の石高200石でした。武断派の安兵衛は、50石も減収させられていました。武断派が取り残されつつあることを意味します。
 その結果、片岡源五右衛門(B)と堀部安兵衛(C)とは、討ち入りという点では同じでしたが、顔を合わすこともない関係になっていました。

 この片岡源五右衛門(B)と堀部安兵衛(C)を取り持ったのが大石内蔵助(A)でした。
 しかし、公約遵守派の大石内蔵助(A)も、過激派の堀部安兵衛(C)の行動に手を焼いていました。
 こうした苦難・波乱の物語を含んでいたのが忠臣蔵です。

耐えに耐えた苦労話(平左衛門、三平、郡兵衛、小平太ら)
庶民の判官びいきを刺激
 橋本平左衛門は、刃傷事件の時(1701年)は、18歳の若者でした。この若さで討ち入りを覚悟した心情は不安なものでした。そこで、その不安を紛らわせるために、大坂曽根崎新地に行き、淡路屋のお初という遊女と深い仲になりました。お互いの将来を語り合う内に、2人は心中して果てました。時に、元禄14(1701)年11月6日でした。

 萱野三平は、刃傷事件の時(1701年)は、27歳でした。三平は、刃傷事件の第一報を早駕籠で伝えました。開城後、三平は、郷里の摂津国萱野村に帰りました。父の萱野七郎左衛門重利は、主家である大島家に懇願して、三平の仕官を認めてもらいました。しかし、三平は、旧主への忠義と父への孝行との間で悩んで、月命日に元禄15(1702)年1月14日、自害して果てました。時に28歳でした。
 俳人としても知られ、俳号は涓泉という俳号を持つ三平の辞世の句です。
 晴れゆくや 日頃心の 花曇り

 高田郡兵衛は、刃傷事件の時(1701年)は、堀部安兵衛・奥田孫太夫とともに江戸から赤穂へ赴き、大石内蔵助に籠城を主張しています。開城後、高田郡兵衛は安兵衛・孫太夫らと江戸の過激派の中心として、活動しています。
 元禄14(1701)年12月、固い結束をはかっていた3人組の1人である高田郡兵衛は、突如脱盟しました。安兵衛はその理由を次の様に述べています。
 郡兵衛の伯父である旗本・内田三郎衛門元知は、橋爪新八を通じて、高田郡兵衛に養子になるよう申し入れました。郡兵衛は、この申し入れを断ると、内田は、郡兵衛の兄弥五兵衛の宅に行き、「どうして断るのか、本当の理由は何か」と激しく迫りました。兄の弥五兵衛は、隠し切れず、「存知寄りがある」と話してしまいます。内田は激怒して、「5人以上が徒党して事を構えれば、親戚中は破滅する」「養子になれば大事は口を閉ざすが、さもなくば、私の上司・村越伊代守に訴え出る」と言われ、郡兵衛は討ち入り計画を口外しない条件で養子を受け入れました。
 郡兵衛の脱盟は、過激派に痛打となり、安兵衛は、大石内蔵助に借りを作ることになりました。
 その後の郡兵衛はどうなったのでしょうか。内田家を継いだのは、武沢氏からの養子となった三郎衛門正備で、郡兵衛ではありません。討ち入り後、赤穂浪士の英雄化が原因ではないかということです。
 安兵衛らの切腹後、郡兵衛は自害したとも言われています。

 毛利小平太は、討ち入り直前に脱盟しました。
 大石内蔵助は、元禄15(1702)年11月29日付けの落合与左衛門に託した瑶泉院への書状には、大石内蔵助ら47人と同列に毛利小平太・瀬尾孫左衛門・矢野伊助の名前を列挙して、50名が討ち入ることを決意しています。
 毛利小平太は、12月11日付けの書状で脱盟を表明しました。
 12月14日の吉良邸に突き刺した討ち入り口上書には、毛利小平太の名はあって、矢野伊助や瀬尾孫左衛門の名はありません。
 大石内蔵助は、討ち入りに際して、毛利小平太の脱盟を知り、小平太の裏門隊の後任に、三村次郎左衛門を表門隊から裏門隊に変更しています。
 病弱の妻から説得されたとも、大垣新田藩主・戸田淡路守氏成に仕えていて兄に説得されたとも言われています。

忠臣蔵を支えた女性群像
大石りく・お軽・瑶泉院
 大石りくは、大石内蔵助の妻です。刃傷事件の時は、33歳でした。
 貞享4(1687)年、豊岡藩京極家の家老1200石・石束源五兵衛毎公の長女りく(19歳)は、赤穂藩浅野家の家老1500石・大石内蔵助(29歳)の妻となりました。
 大石りくは、元禄元(1688)年に長男松之丞、元禄3(1690)年に長女くう、元禄4(1691)年に次男吉千代、元禄12(1699)年に次女るりを生んでいます。
 元禄15(1702)年4月15日、内蔵助は、まだ討ち入りを表明する前に、長男主税を残して、妻りくと子ども3人を豊岡の実家に返しました。
 大石りくは、7月5日に三男大三郎を生みました。
 12月月14日、内蔵助らは、吉良邸に討ち入り、本懐を遂げました。その後、豊岡では、長女のくうと次男吉千代は、夭逝しています。
 正徳3(1713年)年9月、広島の浅野本家は、三男の大石大三郎を父内蔵助と同じ1500石で召抱えました。その時、母の大石りくと姉のるりも広島に同伴しています。りくは、落飾してから香林院と称し(青林院とする文書も)、広島藩から隠居料として100石を支給されていたが、
 元文元(1736)年、香林院と名を改めたりくが亡くなりました。時に68歳でした。

 お軽は、大石内蔵助の側女です。刃傷事件の時は、18歳でした。
 小山源五左衛門と進藤源四郎は、内蔵助に若くて美人の娘を側に置けば、廓通いも止むのでは無いかと思案して、二条通寺町二文字屋次郎右衛門の女お軽(可留)世話したといいます。
 内蔵助は、討ち入り直前の元禄15(1702)年11月25日付け書状で、京都の寺井玄渓に「お軽に子どもが出来たら、少々金銀を与えて欲しい。この時期にいらざる心配であるが、少しは気になり、志の邪魔になっています。よろしくお願いします」と書いています。
 京都の上善寺には、「清誉貞林法尼」と書かれた墓があります。お軽の戒名と言われています。その左側に「快誉清輪法尼」という戒名があります。お軽と内蔵助の間に生まれた子の戒名ではないかと言われています。
 瑞光院の過去帳を見ると、「清誉貞林法尼は、正徳3(1713)年10月6日に往生し、29歳だった。彼女は、二文字屋の娘で可留という。内蔵助の妾である」と記録されています。  

 瑶泉院は、浅野内匠頭の妻です。刃傷事件の時は、27歳でした。浅野内匠頭の死後、落飾して瑤泉院と称しました。
 1677(延宝5)年9月21日、三次藩主・浅野因幡守長治の三女・阿久里姫(4歳)と赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(11歳)との婚約が成立しました。
 1683(天和3)年4月9日、阿久里姫(10歳)は、浅野内匠頭長矩(17歳)の妻となりました。
 1695(元禄8)年12月、急病の長矩は、弟浅野大学長広(26歳)を養子としました。
 1701(元禄14)年3月16日、阿久里は、赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られました。落飾して瑤泉院となりました。
 11月14日大石内蔵助は、お化粧料(結婚時の持参金)を討ち入り費用として使うことを瑤泉院に願い出ました。これが瑶泉院との最期の面会であり、討ち入り前の「南部坂雪の別れ」は創作です。
 1706(宝永3)年8月、将軍家綱の27回忌にあたって、赤穂浪士3人の赦免に成功しました。
 1714(正徳4)年6月、瑶泉院は、三次浅野家下屋敷で亡くなりました。時に41歳でした。夫浅野内匠頭と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られています。

討ち入り47人の生国を調査
47人中28人が播州赤穂で生まれています
 赤穂の人で、アンチ忠臣蔵の人は「忠臣蔵と言っても、あれはよそ者のしたことや」と言う人がいました。
 それは、根拠があるのでしょうか。調査してみました。その結果が下記の表です。
 正保2(1645)年、笠間からやって来た人もいます。途中採用の人もいます。
 しかし、大石内蔵助を初めとして、47人中28人が播州赤穂の生まれでした。実に59.5%に人が赤穂生まれでした。室鳩巣が討ち入り後「赤穂の風土の厚さはこれで分かる」という指摘がぴったりです。

年齢 年齢早見表(1702年現在) は討ち入りした47人(生国赤穂)
76歳 奥野将監 堀部弥兵衛(常陸笠間)   
68歳 間 喜兵衛(近江粟田)    
63歳 村松喜兵衛(播州赤穂) 吉田忠左衛門(常陸笠間)  
62歳 吉良上野介 間瀬久太夫(播州赤穂)  
60歳 吉良富子 小野寺十内(常陸笠間)  
57歳 徳川綱吉    
56歳 梶川与惣兵衛 奥田孫太夫(鳥羽)  
55歳 小山源五左衛門 原 惣右衛門(出羽米沢)  
53歳 貝賀弥左衛門(播州赤穂)    
52歳 進藤源四郎    
50歳 千馬三郎兵衛(播州赤穂)    
47歳 中村勘助(奥州白河)    
45歳 木村岡右衛門(播州赤穂) 細井広沢 柳沢吉保
44歳 大石内蔵助(播州赤穂)    
43歳 上杉綱憲 菅谷半之丞(播州赤穂)  
39歳 早水藤左衛門(備前西大寺) 前原伊助(江戸浅野家)   
38歳 寺坂吉右衛門(播州若狭野)     
37歳 岡島八十右衛門(出羽米沢) 荻生徂徠 神崎与五郎(美作津山)
36歳 (浅野内匠頭) 片岡源五右衛門(尾張名古屋) 茅野和助(美作津山)
三村次郎左衛門(播州赤穂) 横川勘平(美作)  
34歳 大石りく 赤埴源蔵(信濃飯田) 潮田又之丞(播州赤穂)
羽倉 斎    
33歳 浅野大学 倉橋伝助(播州赤穂) 近松勘六(近江野洲)
冨森助右衛門(播州赤穂) 不破数右衛門(播州赤穂) 堀部安兵衛(越後新発田)
31歳 大高源五(播州赤穂) 武林唯七(播州赤穂)   
29歳 瑶泉院     
28歳 萱野三平 矢田五郎右衛門(播州赤穂) 吉田沢右衛門(播州赤穂)
27歳 小野寺幸右衛門(播州赤穂) 杉野十平次(播州赤穂)   
26歳 大石瀬左衛門(播州赤穂) 村松三左衛門(播州赤穂)   
25歳 奥田貞右衛門(播州赤穂) 清水一学 間 十次郎(播州赤穂) 
24歳 磯貝十郎左衛門(江戸松平家)     
23歳 岡野金右衛門(播州赤穂) 勝田新左衛門(播州赤穂) 間 新六郎(播州赤穂) 
間瀬孫九郎(播州赤穂)    
19歳 白明     
18歳 吉良義周 橋本平左衛門   
17歳 矢頭右衛門七(播州赤穂)     
15歳 大石主税(播州赤穂)     

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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