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平成21(2009)年1月14日(第290号)

忠臣蔵新聞

ダイジェスト忠臣蔵(30)

内蔵助の作戦勝ち
(最後の裁きを幕府に預ける)

遊びには能力を発揮する大石内蔵助(挿絵:寺田幸さん
 元禄15(1702)年12月15日(東京発)
大石内蔵助は、「呑ん兵衛」で
「助兵衛」で「昼行燈」だった
 昔から、大石内蔵助は、「呑ん兵衛」であるとか、「助兵衛」であるとか、「昼行燈」とか言われてきました。
 絵を描いた朱色の杯が残されています。赤穂浅野家が取りつぶしの後、内蔵助は、山科から毎晩のように山越えで島原に通ったとされています。そういう意味では、確かに「呑ん兵衛」です。しkし、「黒田節」にあるように、酒飲みが非難されることはありません。
 内蔵助は、赤穂で妻りく以外に、側女を囲っており、子どもももうけています。山科では、りくを離縁した後、娘のような若いお軽を側女にしています。そういう意味では、「助兵衛」と言えます。しかし、近代の日本史でも、戦前まで、「甲斐性のある男と側女の数は一致する」と言われたわけで、なんら非難に当たりません。
 明るい昼間は行燈や役に立ちません。内蔵助も役に立たないという意味で、「昼行燈」と言われたということです。しかし、内蔵助は、平常な時は昼行燈ですが、非常時には、特別な才能を発揮しました。主君浅野内匠頭に代わって、備中松山城の受け取りに成功しています。

内蔵助らが討ち入りしたのは就職運動?
内蔵助らが切腹しなかったのは、切腹が怖かった?
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』)
 大石内蔵助ら赤穂浪士46人は、主君の仇打ちに成功して、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級を供えました。そして、自らは切腹をせず、その後の処分を幕府に委ねました。
 これについて、井沢元彦氏らは、就職運動の一環だったとか、死ぬのが怖い卑怯者集団だったと誹謗・中傷を繰り返しています。
 しかし、内蔵助らは、吉良邸に討ち入りして、失敗した場合も死を覚悟しています。
 また、引き揚げるとき、回向院で上杉家の追手を待って、潔く戦い挑むことを覚悟しています。
 引き揚げ途中、吉田忠左衛門らを大目付邸に派遣して、討ち入り趣意書を提出しています。
 ここには、大石内蔵助の意図をはっきりと読み取ることができます。

天下の副将軍・水戸黄門と赤穂事件?
印籠を振りかざす里見浩太郎さんの水戸黄門(TBSテレビより)
 私事ですが、小学校・中学校・高校・大学時代を通じて、小遣いの大半を映画につぎ込んで来ました。映画評論家を目指していた時期もありました。今は遠い昔話ですが・・・。
  中学時代、水戸黄門の映画を見ました。庶民が生類憐みの令で困っているのを知った黄門さんが、江戸城に乗り込みました。将軍徳川綱吉は、「じいからの土産をはやく開けよみよ」と命じました。黄門さんからの土産は大長持ちに入っていました。ふたを開けると、犬の毛皮が一杯入っていました。激怒した綱吉に、黄門さんがコンコンと説教しました。綱吉は「じい、悪かった」と謝りました。

 私は、この映画の話を信じていました。大学に入って、水戸光圀を調べる機会がありました。
 1628(寛永5)年6月10日、徳川千代松(後の光国、光圀、黄門さん)が生まれました。
 1661(寛文元)年8月19日、水戸の光国(徳川家光の一字を賜る)は、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となりました。
 1679(延宝7)年、水戸の光国は、諱を光圀と改めました。
 1680(延宝8)年、徳川綱吉(父は徳川家光。35歳)が5代将軍となりました。
 1681(天和元)年、綱吉は、母桂昌院の願いで、護国寺を建立しました。膨大な予算を注入しました。これを請け負った豪商が、元禄繚乱に花を開かせました。
 1683(天和3)年、将軍徳川綱吉は、代替わりの武家諸法度(天和令)を出し、武断政治から忠孝・礼儀を重視する文治政治に大転換しました。
 1685(貞享2)年、生類憐みの令が出されます。人の命より、蚊の命が重視される時代がやってきました。庶民の不満が高揚しました。
 1690(元禄3)年2月7日、湯島に聖堂を建立し、林信篤(林羅山の孫)を大学頭に任命しました。膨大な予算を注入しました。これを請け負った豪商が、元禄繚乱に花を開かせました。
 10月15日、隠居した水戸光圀に、権中納言が賜与されました。権中納言=黄門の誕生です。
 1695(元禄8)年、勘定吟味役の荻原重秀は、貨幣改鋳によって500万両を得ました。この結果、猛烈なインフレがおこり、庶民の不満が高揚しました。
 1700(元禄13)年、徳川光圀(水戸黄門)が亡くなりました。時に73歳でした。
 1701(元禄14)年3月、刃傷事件があり、浅野内匠頭が切腹しました。
 1702(元禄15)年12月、内匠頭遺臣が吉良邸に討入り、主君のあだを討ちました
 1703(元禄16)年2月、助命・厳罰の議論がおこり、将軍綱吉が武士としての切腹を命じました。
 1709(宝永6)年1月10日、将軍徳川綱吉(64歳)が亡くなりました。徳川綱吉は、遺言で「生類憐みの令」の存続を命じました。
 1709(宝永6)年1月20日、生類憐みの令が廃止されました。 

水戸黄門の説得も聞かない独裁者・将軍
内蔵助は、独裁者・将軍から喧嘩両成敗を勝ち取る
 上記の年表のように、1700年に黄門さんは亡くなっていました。そして、生類憐みの令が廃止されたのは、1709年でした。あの映画は完全なフィクションだったのです。
 田舎で、印籠を片手にして「この印籠が目に入らぬか」と威張るくらいなら、将軍綱吉に談判して、悪法を撤回する方が先ではないかと思うと同時に、黄門さんも説教したが、拒否されたかもしれないと思うようになりました。
 天下の副将軍である水戸黄門さんですら説得できない独裁者である将軍徳川綱吉を相手にして、大石内蔵助は堂々と対峙したのです。
 その結果、徒党を組み、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を刎ねた大罪人たちは、当然、獄門に処せらるべきを、義は義、罪は罪として、武士のとして切腹を命じました。
 他方、吉良家は断絶しました。
 つまり、大石内蔵助の意図である喧嘩両成敗を、独裁者の将軍から勝ち取ったのです。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)

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