平成21(2009)年9月27日(第301号)
忠臣蔵新聞第301号発行!! 第400号への第一歩 |
第301号のテーマは 高校生の疑問を共に考える(1) 庶民・大名・学者らが支持した理由? |
赤穂義士と山鹿素行全国フォーラム |
日時:2009年9月27日13時〜16時/場所:赤穂ハーモニーホール |
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スクリーンを背にパネリストとしてプレゼン(発表)する筆者(中央) | |||||||||||||||||||||||||||
教科書に見る山鹿素行と赤穂事件←クリック | |||||||||||||||||||||||||||
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「次代を担う若者が支持しない思想・文化は衰退する」というのが筆者の持論です。 出来るだけ、高校生に意見を求めます。 第300号では、「吉良邸討ち入りは徒党の罪で、その罰は獄門」「しかし、義により切腹となった背景には、赤穂浪士の討ち入りを庶民・旗本・大名・学者が支援した」ということをホームページ化しました。 すると、どうして、支援されたのかを調べたいということになりました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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最初の疑問は「生類憐れみの令で庶民は困った?」 | |||||||||||||||||||||||||||
(挿絵:寺田幸さん) | |||||||||||||||||||||||||||
*高校生の解説1:授業でならったので「生類憐れみの令」という用語は知っています。 しかし、本当に、人間を困らせる法律が出たのか、先生に手伝ってもらって、史料を探すことにしました。 人間が困っている史料を見て、びっくりしました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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史料(1━1)尾張藩士・朝日文左衛門重章が「この頃、江戸千住街道に犬を2匹磔(はりつけ)にし、札にはこの犬は将軍の威を借りて諸人を悩ますので、このように処分したとありました」と江戸庶民の反感・抵抗の姿を描いています。 史料(1━2)国学者の戸田茂睡が「犬に対して人間が怖気づいたり、恐れる様は、貴人や高位の人に接するのと同じである。打ったり叩いたりすることは別として、”お犬様”と言ったりするものだから、段々犬も増長して、人間を恐れず、道の真ん中に横たわって寝たり…もし、犬の手足を怪我させるようなことがあれば、外科に診せて、養生・治療を加える」とお犬さまの状態をリアルに表現しています。 史料(1━3)慶長から元禄にいたる幕府の法規集で「生類憐みの令については以前から仰せ出されている所、下々ではこのお触れを知らないのか、日頃、怪我をした犬を度々見かける。けしからんことである。今後、怪我をさせて犬については、犯人がはっきりして、よそから発覚した場合、町全体の落度とする」とあります。 | |||||||||||||||||||||||||||
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(1)頃日、江戸千住海道に犬を二疋磔置く。札に此の犬、公方の威を仮り諸人を悩すに仍って此の如く行う者也(『鸚鵡籠中記』) (2)犬に人のおぢおそるる事、貴人高位の如し、うちたゝく事はさし置いて、お犬様といふ、此ゆへ、日にまし犬にもまごりつきて、人をおそれず、道中に横たハりに臥して…・もし手足をそこぬる事あれバ、外科をかけて養生治療をくハふる(『御当代記』) (3)生類憐憫の儀、前々より仰せ出され候ところ、下々にて左様これなく、頃日疵付き侯犬共度々これあり、不届きの至に侯。向後、疵付き候手負犬、手筋極り候て、脇より露見致し候はゞ、一町の越度たるべし。(『御当家令条』) | |||||||||||||||||||||||||||
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第二の疑問は「貨幣改鋳によるインフレで庶民は困った?」 | |||||||||||||||||||||||||||
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慶長金銀を改鋳して、元禄金銀を鋳造しました。その結果、幕府は500万両の利益を手に入れました。 元禄小判や慶長小判の写真を入手してきました。 *高校生の解説2:貨幣改鋳により、幕府が儲けたことは理解できましたが、庶民にどう影響したかは、なかなか理解できませんでした。 そこで、そこで先生に分かりやすい説明をお願いします。以下が先生の話です。 物の数が同じ時、お金が増発されると、物価が上昇し、お金の価値がなくなる。庶民は貯金の価値をなくして、幕府は儲ける仕組みとなる。お金が増発されると、商業は盛んになる。 物の数が同じ時、お金が減発されると、物価が下落し、お金の価値が高まる。この場合、商業は停滞する。 | |||||||||||||||||||||||||||
*高校生の解説3:そこで、先生の説明を次のように表にしました。 貨幣改鋳によるインフレで、庶民が困るということは理解できました。経済学部を目指していた友人は、「江戸時代も、お金が大切な役割をしていたんだなー」とちょっと得意気にしゃべっていました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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第三の疑問は「旗本や大名が支援した訳は?」 | |||||||||||||||||||||||||||
*高校生の解説4:次に、私たちがが不思議に思ったのは、「どうして、旗本や大名が赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支持したか」ということです。 いろいろ探しました。吉良も旗本ということは分かりましたが、同じ旗本がどうして、同僚を裏切ったりしたのか、分かりませんでした。 そこで、先生にヘルプをお願いしました。以下が解説と資料です。 その結果、私たちは、綱吉の政治に大名や旗本がおびえていたことを感じ取りました。吉良上野介が憎まれ役の手軽なターゲットであったことも理解できました。 | |||||||||||||||||||||||||||
徳川家康の時は、関ヶ原の戦いがありました(41家)。徳川秀忠の時は、大坂の役がありました(38家)。「生まれながらの将軍である」と宣言した徳川家光の時は、駿河藩主・徳川忠長や熊本藩主・加藤忠広などを改易し、島原の乱などがありました(47家)。 徳川家綱の時、29家と激減しましたが、徳川綱吉の時は45家と増加し、旗本で改易されたのは100家以上に上りました。 徳川綱吉は、改易による処分で将軍の権威を高め、吉良家などの高家に厳しい儀礼指導を実施しました。綱吉の恐怖政治は、側用人・柳沢吉保と高家・吉良上野介との3点セットと考えられていました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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熊本藩の藩主細川綱利 「十七人之勇士共ハ御屋鋪ニ能き守神と被思召との御意承候草の蔭ニ而も何茂難有可被奉存と感涙を流し申候」(『堀内伝右衛門覚書』) | |||||||||||||||||||||||||||
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第四の疑問は「学者が支援した訳は?」 武家諸法度の転換(元和令から天和令へ) | |||||||||||||||||||||||||||
5代将軍徳川綱吉 | |||||||||||||||||||||||||||
*高校生の解説5:次に、私たちが理解できなかったのは、「どうして、教科書に出てくるような学者が赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支持したのか」ということです。 ここでも、いろいろ調べましたが、分かりませんでした。 そこで、先生に、「武家諸法度を調べては」とアドバイスされました。 その結果、私たちは、武断政治(武力によって専制的に行う政治)から、5代将軍・綱吉の時に、忠孝・礼儀を重視する文治政治に変化したことを発見しました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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史料(3━1)「文武弓馬の道に、ひたすら励むようにせよ」→元和令は、元和元(1615)年、徳川秀忠が出した武家諸法度です。この段階では、武士は、文武と弓馬に精進せよということで、圧倒的に武芸に励むことが奨励されています。 史料(3━2)「学問・武芸・忠孝に励み、礼儀を正しくするようにせよ」→天和令は、天和3(1683)年、徳川綱吉が出した武家諸法度です。この段階では、武士は、学問と武芸武芸に励み、さらに忠孝にも励み、さらにさらに礼儀を正しくすることが奨励されています。武断政治の結果、浪人が多数発生し、その浪人を利用して、幕府転覆を謀る由井正雪の乱が発生しました。その結果、5代将軍・綱吉の時に、幕府は、忠孝・礼儀を重視する文治政治に転換しました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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(1)武家諸法度(元和令) 一、文武弓馬の道、専ラ相嗜ムベキ事 (2)武家諸法度(天和令) 一、文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事 | |||||||||||||||||||||||||||
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第四の疑問は「学者が支援した訳は?」 誰がどう支援したか? | |||||||||||||||||||||||||||
*高校生の解説6:私たちは、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした時は、忠孝・礼儀を重視する時代だったことが分かりました。 でも、「どんな学者がどんなことを言って、大石内蔵助らを支援したという具体的な事実があるのか」という疑問に出くわしました。 ここでも、先生に助言をお願いしました。先生は、次の2つの史料を紹介してくれました。 その結果、私たちは、文治政治に転換した流れの中で、文部科学省の大臣ともいえる林大学頭が忠議論を主張して助命を嘆願していることを知りました。加賀100万石の大名に仕えた室鳩巣が忠義の心を育んだ赤穂の風土を賞賛していたことに、感銘をうけました。「忠臣蔵は僕らの誇りなんや!!」と言う友だちもいました。 | |||||||||||||||||||||||||||
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史料(4━1)「この度、浅野内匠頭の旧家臣の大石内蔵助らが、亡主の遺恨を継いで吉良上野介を討ったのはまさに義である。それは少しも公儀(将軍・幕府)には背いていない。家臣として誠の忠を尽くしたのであるから褒めるべきである。強いて大石らを規定通り獄門にしたならば、必ず忠義は地に落ちるであろう」→林鳳岡信篤は、湯島聖堂の大学頭として、朱子学の忠議論を展開して、赤穂浪士の助命嘆願の先頭に立ちました。 史料(4━2)「吉良上野介殿を打ち取った。今まで聞いたことがない。忠義の気が満ち満ちている。赤穂浪士う生んだ赤穂の風土の厚さは、このことで良く分かる」→加賀100万石・前田綱紀に仕えた室鳩巣は、吉良上野介の首級をとった行為を忠義の見本と称賛しています。と同時に、そういう赤穂浪士を育てた赤穂の風土もほめちぎっています。 | |||||||||||||||||||||||||||
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(1)林鳳岡信篤 「此の度浅野が旧臣大石を始め、亡主の遺恨を継いで吉良を討らしは、義の当る所にて、その始末いささかも公儀に背かず、人臣の誠忠を尽せしは賞すべきの処置なり・・強いて此の輩に厳刑を下されなば、忠義の道、地に落ちんこと必定なり(『五美談』) (2)室鳩巣 「上野介殿を討取申候儀、前代未聞、忠義の気凛々。赤穂士風之厚も是に而相知れ・・」(『義人録』) |