home back back

平成21(2009)年9月27日(第302号)

忠臣蔵新聞

忠臣蔵新聞第302号発行!!
第302号のテーマは
高校生の疑問を共に考える(2)
江戸時代の武士の生き方・考え方は?
赤穂義士と山鹿素行全国フォーラム
日時:2009年9月27日13時〜16時/場所:赤穂ハーモニーホール

スクリーンを背にパネリストとしてプレゼン(発表)する筆者(中央)
教科書に見る山鹿素行と赤穂事件←クリック

 「次代を担う若者が支持しない思想・文化は衰退する」というのが筆者の持論です。
 出来るだけ、高校生に意見を求めます。
 第300号では、「吉良邸討ち入りは徒党の罪で、その罰は獄門」「しかし、義により切腹となった背景には、赤穂浪士の討ち入りを庶民・旗本・大名・学者が支援した」ということをホームページ化しました。
 高校生が理解に苦しんだのが、獄門を覚悟で、徒党を組んで、吉良邸に討ち入った赤穂浪士の生き方や考え方でした。そこで、武士の生き方・考え方を調べようということになりました。

江戸時代の武士とは?
封建制度とは?
将軍と従五位以上の大名との対面図(江戸城大広間)
*高校生の解説1:私たちは、先生に江戸時代の武士の生き方・考え方を知る資料をお願いしました。
 上の写真「将軍と従五位以上の大名との対面図」とその解説、赤穂浅野家の歴史を教えて頂きました。
 将軍に土下座する大名の姿が克明に描かれています。大名の規定は、@将軍から1万石以上の領地を与えられ、A将軍と御目見得が出来る武士です。加賀前田家の家老を務めた8家(加賀八家)は、本田家5万石を筆頭に、全てが1万石以上です。つまり、大名には、@1万石以上A御目見得以上という2つの条件が必要です。
 これと同じように大名も国元に帰れば、家臣から土下座の挨拶を受けます。
 赤穂浅野家の歴史です。
 延宝元(1673)年9月6日、大石権内良昭(34歳)は、赤穂藩の大坂屋敷で亡くなりました。
 赤穂浅野家2代目・浅野采女正長友(31歳)は、大石良昭の父・内蔵助良欽(56歳)の養子に良昭の長男・良雄(15歳)を迎えることを認めました。
 延宝3年(1675)1月26日、浅野長友(33歳)が江戸で没亡くなりました。
 3月25日、4代将軍徳川家綱は、浅野内匠頭長矩(9歳)に対して赤穂藩主(表高5万3500)の継承を認めました。
 4月7日、赤穂浅野家3代目・浅野内匠頭は、初めて将軍徳川家綱に御目見得しました。
 延宝5(1677)年1月26日、大石良雄の祖父で養父・大石内蔵助良欽(60歳)が亡くなりました。
 浅野内匠頭は、大石内蔵助(19歳)に対して祖父の遺領(1500石)の継承と見習家老を認め、大叔父(祖父良欽の弟)・大石頼母助良重に後見を命じました。
 大名の規定と、赤穂浅野家の歴史から分かるように、土地の相続は家の存続を前提として、将軍または大名から認められています。父が亡くなると9歳の子供を藩主としたり、父が亡くなると孫を自分の養子にしたりしています。
 土地を与えられた結果、将軍・大名(上・主人)に対して家臣(下・従者)は、忠誠を誓います。封建制度の規定は「土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる制度」ということになります。
 特に、江戸時代は、武士の生活は、主君の与える土地した収入の道がないので、「二君に仕えず」という状態になりました。
*高校生の解説2:姉と妹がいる女子生徒の悩みは「養子を迎えて誰が家業を継ぐか」ということでした。彼女は「家業は代々受け継いできたので、一部の人に忠誠を使うという気持ちは分かりません」と言います。
 「封建制度は、実感として分からない」というのが私たちの実感です。
 そこで、さらに、江戸時代の武士の生き方・考え方の話を、先生に聞きました。

山鹿素行銅像(赤穂城内)
赤穂藩に影響を与えた山鹿素行の武士道(1)
「遊民」に過ぎない武士の職務
忠を尽し、信を厚くし、義をつらぬく
*高校生の解説3:先生から、寛永2(1894)年の秋田藩の身分別人口構成の表と、赤穂藩に影響を与えた山鹿素行の武士道の話を聞きました。
 1割の武士が9割の人を支配するということは、統計で理解できました。支配者としての武士は、指導者でもあります。特権階級である武士に求められたことが忠・信・義であることは分かりました。言葉は今も残っていますが、まだ、実態はピンとしません。

 武士の人口は、寛永2年の秋田藩の例では9.8%、明治初期の全国の例では6.3%です。ともかく、武士の人口は、全人口の10%以下です。
 山鹿素行は、平時における武士道の理論を確立しました。その主な論点は以下の通りです。
 武士は、耕しもせず、つくりもせず、売ることもしない。武士という職分がなければ、ただの「遊民」に過ぎない。つまり、戦いのない平和な時代の武士の存在理由を厳しく追求しました。
 これを素行は、「主人を得て奉公のを尽くし、朋輩と交際してを厚くし、身を慎んでをつらぬく」と表現しました。
 忠とは「心+音符中」で、中身が充実して欠けめのない心のことで、転じて「主君に対していつわりをもたず、まごころをもって尽くすこと」です。
 信とは「人+言」で、途中で屈することなく、まっすぐのび進むの意で、転じて「一度した言明や約束をどこまでも通すこと」です。
 義とは「羊(形のよいひつじ)+音符我」できちんとしてかっこうがよいと認められるやり方で、転じて「人として行うべき正しい道。人の守らなければならない事柄」です。
嘉永2(1894)年の久保田藩 (秋田藩)身分別人口構成
身分 武士 社・寺 百姓 町人 その他 合計
合計 36,453 7,256 284,384 27,852 20,610 372,154
9.79 1.94 76.41 7.48 5.53 -

赤穂藩に影響を与えた山鹿素行の武士道(2)
「遊民」に過ぎない武士の人倫(ひとのみち)
主君の為に無私の心で自害
 山鹿素行は、「遊民」に過ぎない武士に対して、文武・弓馬に励み、人倫(君臣・朋友・父子・兄弟・夫婦)を修め、人格を高めることを主張しました。人格を高めることによって人倫の道を実現し、「遊民」に過ぎない武士が初めて農工商の見本になることができるというのです。
 具体的には、「遊民」に過ぎない武士という職分を自覚し、その分を守って主君に仕え、最後には、主君の為に無私の心で自害する。最初に仕えると決めた主君には、最後まで尽し、新しい主君を求めない。
*高校生の解説4:特権階級の武士は、武士であることを自覚し、「主君の為に無私の心で自害する」。この考え方・生き方を実践できる武士は、他の人々の見本になるということがやっと理解できました。
 松浦亜弥が好きな友人は、TVの『忠臣蔵 決断の時』(主演:中村吉右衛門)を見ていました。松浦亜弥の父・蟹江敬三が娘の為に犠牲になって細山田隆人との結婚を成し遂げました。その時、父が言った言葉が印象に残っていると紹介しました。「武士とはつらいものでござるなー」。
史料 (1) 口語訳
 史料(1━1)「家臣の勤めは、ただ主君のために死ぬことだけが忠勤と思ってはならない。普段から志を立てて自分が武士であるという職分を守り、昼夜の勤めを少しも怠ってはならない」→主君の為に死ぬことだけが忠義ではない。武士と言う職分を守って努めることが大切である。
 史料(1━2)「自分の為に死ぬことは簡単だが、忠義として死ぬことは難しい」→自害には損得の死と無私の忠義の死とがある。無私の死は難しい。
 史料(1━3)「忠義な家臣は二人の主君には仕えない。これは家臣として当然の道である。家臣として、二君を考えるということは、二心(二通りの心)を持つということなので、これは家臣の道ではない」→二人の主君に仕えると言う考えは、主君に背く心があるということであるから、家臣は二人の主君に仕えると言う考えを持つべきではない。
史料 (1)
(1)「臣の職、只だ死を一途に究むるを以て、忠勤と思ふべからざる也。平生志を立て己れが職分を守り・・畫夜のつとめ、いささか怠るべからざる也」(臣職)
(2)「死は易く成は難し」(臣職)
(2)「忠臣は二君に事へず。此れ天地間の常の道也。臣として二君を思はんは、二心を懐くゆゑんなれば、是れ臣の道にあらざる也」(仕法)

赤穂藩に影響を与えた山鹿素行の武士道(3)
いつも死を覚悟して言・動している
誰にも、何処にも心残りがない(無私)
 北条氏長は、山鹿素行に「これより直ぐに赤穂の地に参ることになっているので、どんなことでも家族に用事があるならば、申し出なさい。そのように配慮しよう」と伝えました。
 それに対して、山鹿素行は「私はいつも死を覚悟して、言ったり、行動しているので、誰にも、何処にも心残りがない」と答えました。
 つまり、山鹿素行は無私の状態にあることが分かります。
*高校生の解説5:私たちは、言葉に命をかけるという、先生のエピソードには「びっくりした」り「信じられへん」と感じました。私たちは、忙しくて、1日に1回は約束を破る場合があります。ケータイを使っている友だちは、1日50通以上もメールをします。私たちは、武士に比べて、言葉の軽さを実感しました。「なかなか、武士には、なれへんなー」
史料 (2) 口語訳
 史料(2━1)北条氏長が「これより直ぐに赤穂の地に参ることになっているので、どんなことでも家族に用事があるならば、申し出なさい。そのように配慮しよう」と伝えました。
 史料(2━2)それに対して、山鹿素行は「私はいつも家を出るときは、どこにも心残りがないように努めて、家族に用事があるはずがない」と答えました。
史料 (2)
(1)北条氏長
「是より直に彼の地へ参るべく候間、何にても宿へ用所候はば、申し遣はすべく候」
(2)山鹿素行
「常々家を出候より、跡に心残り候事は之れ無き様に勤め罷有候間・・御座無く候」

赤穂藩に影響を与えた山鹿素行の武士道(4)
刀の威力・刀を持つ意味?
岡崎正宗の名刀
*高校生の解説6:先生から何故武士は刀を差しているのかという質問がありました。
 私たちは、武士が刀を差す理由をいろいろ考えました。
 武士以外に刀を差すことは禁止されていましたので、「刀を差している人は武士」、つまり身分の象徴だという意見がでました。
 刀は、武士としての精神修行のシンボルだという意見が出ました。
 武士の本来の職業は、戦争屋です。だから、刀は兵器だという意見がでました。
 野球部に所属している友人から、「日本刀の重さは約1000グラムから1500グラム、長さは約80センチだと聞いたことがある」と教えられました。さらに、「高校野球では900グラム以上のバットを使用することになっている」とも教えられました。イチロー選手のバットの重さは約900グラム、長さは83センチということです。
 井上雄彦著『バカボンド』(宮本武蔵が主題)が好きな友人は、野球のバットでも人を殺害する威力を持いる。刺身包丁は短いがバットより殺傷能力が高い。野球のバットの重さと長さを持つ、鋭利な刺身包丁で襲われては、無事ではすまんと分析します。

赤穂藩に影響を与えた山鹿素行の武士道(5)
誰にも、何処にも心残りがない(無私)
無私・無欲を得る方法?
↑クリック(拡大写真にリンク)
*高校生の解説7:高岡英夫著『武蔵とイチロー』を読んだという友だちは、「武蔵の理論・技術をイチローが体現している」「脱力という共通点がある」という話をしてくれました。
 よくTVを見て、プロ野球の解説することに優れた才能を発揮する友だちは、イチロー選手の構えは、非常にリラックスしていて、心を無にして、どんな球に自然に対応できるようだと言います。あるTV局の特集では、イチロー選手は「まるで求道者のようだ」と表現していたといういことです。
 小学生のころより書道をしている友だちは、先生に褒められようとか、全国大会に出品できたらとか、特賞をとってやろうと思った時の作品より、何にも考えていない時の作品の方が「出来栄え」がいいと証言してくれました。
 「武士は、常に心を無にする修業をしているんだなー」という友だちも出てきました。
 剣道・柔道や茶道・華道などの「道」は、心を無にする修行のことだろうか?と問う友だちもいました。そこで、剣道もソフトボールも指導する先生に「剣道で得たものは何ですか?」と聞きました。
 先生は、「強力な指導部・外部コーチ、優秀な選手が集まった時の剣道部の顧問だった」そうです。その結果として、全国大会に出場しました。
 試合や指導をする時、相手の面の中から目だけを凝視する。精神が極度に集中(心を無に)すると、相手の目しか見えなくなる。目を見れば相手が何を考えているかがよく分かる(目は口ほどに物を言う)。こういう時は、必ず勝つそうです。
 逆に、全国大会に出場した時の主将と係り稽古をした時などは、気がついてみると、打ち込まれていることがあったそうです。相手の方が上の時は、自分が分からない内に、負けているそうです。
 最後に、剣道で得たものは、心を無にすることが出来る。すると、相手、さらには自然と対話ができるようになるという信じられない話でした。

index home back back