| 1694年 |
| 元禄7年(1694) 2月11日 |
| 中山安兵衛武庸が高田馬場で決闘する。 |
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| 2月18日 |
| 収城使の大石内蔵助(36歳)は備中松山城請け取りのため、浅野内匠頭(28歳)の名代として先行する。 水谷家の家老鶴見内蔵助は、収城使の出方によっては一戦も辞さぬ覚悟であったが、内蔵助が武装せずに乗り込んだので、明け渡しに同意する。 |
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| 2月19日 |
| 浅野内匠頭は備中松山城請け取りのため行列を整えて赤穂を発つ。 |
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| 2月22日 |
| 浅野内匠頭は備中松山城に着く。 |
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| 2月23日 |
| 大石内蔵助は鶴見との交渉の結果、浅野内匠頭は無事備中松山城を請け取ることができる。 家老大石内蔵助は備中松山に在番して残務整理にあたる。 |
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| 2月25日 |
| 浅野内匠頭は備中松山城を発つ。 |
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| 2月27日 |
| 浅野内匠頭は赤穂に帰国する。 |
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| 6月22日 |
| 浅野大学長広(25歳。内匠頭の弟)は新田3千石を与えられ、浅野内匠頭の仮養子となる。 |