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(1701年7月1日〜7月22日)
元禄14年(1701)
7月1日
 遠林寺住職の祐海の江戸からの書状(お家再興について)が山科の内蔵助の元に届く。荒木十左衛門は、その書状で、「大石内蔵助の願意に希望がある」と書いている。 

7月3日
 大石内蔵助は第二報への返事を堀部安兵衛宛てに送る。その内容は次のようである@6月28日山科に移るA治療中で東下りはすぐ出来ない。

7月7日
 浅野美濃守邸へ親類一同が集合し、土蔵の内匠頭の武具・家財について協議する。
 浅野内匠頭の家財を浅野美濃守ら一族に分配する。

7月8日
 堀部安兵衛は、内蔵助に討ち入りを急ぐよう書状を送る。。

7月10日
 再び遠林寺住職の祐海から山科の大石内蔵助の元に書状が届く。それに対する内蔵助の返事は「柳沢様への御手筋これあるまじく候や。柳沢様ご家老平岡宇右衛門、これへとくと手寄り申し含め候わば、柳沢様お耳へも達し候ように成るべく候」というものである。

7月中旬
 大石内蔵助は小野寺十内を連れて大垣に行き、大垣藩主戸田采女正氏定と主家再興を相談する。
7月13日

 大石内蔵助は堀部安兵衛ら3人に「浅野大学様の安否を聞き届けない内はどのような考えも大学長広様の為にならない。し損じればかえって害となる」との書状を送る。

7月22日
 大石内蔵助は遠林寺の祐海に「吉良の処分は困難である。浅野大学長広閉門の赦免が片落ち裁定の解決である」と書状を出す。ここでは吉良上野介の隠居・吉良左兵衛義周の家督相続・大学長広お預けになれば、討ち入りしか人前に立てないという気持がよみとれる。

 大石内蔵助は堀部安兵衛に書状(「浅野大学長広様の安否が決まるまではほかに考えがない」と急進的行動に反対する)を出す。

 戸田権左衛門・戸田源五兵衛は、赤穂御用に対して戸田o女正より褒美を賜る。 

7月23日
 杉村十太夫以下、赤穂御用を勤めた藩士と同じく戸田o女正より褒美を賜る。 

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