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(1701年8月8日〜8月21日)
元禄14年(1701)
8月8日
 堀部安兵衛は書状を大石内蔵助に送つて、近況を報じ仇討ちを急がせようとする。

 その内容は次のようである。@吉良上野介を目の前にしている江戸の者には打ち入りの日延ばしは耐えがたいA浅野大学長広の安否がわかれば大石殿の考えを聞かせるというのなら、それまで待つB町方の者は必ず討ち入りすると噂している。

8月14日
 大石内蔵助は、京都紫野大徳寺塔頭瑞光院に浅野内匠頭の碑を建て、衣冠束帯を埋め、追善供養を行なう。また、永代祠堂のため、山林を寄付する。

 大雨・洪水により赤穂城内外で浸水がおこる(〜17日)。

8月19日
 吉良上野介は、呉服橋門内屋敷から本所一ツ目回向院裏、旧松平登之助信望(松平伊豆守信綱四男・信定の第四子)の空屋敷への移転を命じられる。

 堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛らが今井屋敷の瑶泉院の機嫌伺いに出向き、家老・落合与左衛門に会う。

 堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛は山科の大石内蔵助に「人前の回復について」の書状を送る。
 その内容は次のようである。@浅野大学様安否後の大石殿の考えを討ち入りと解釈するA大学長広様が100万石の大名になり主君の切腹を見過ごして仇討ちしないでは、人前に出られまいと町方では噂しているB閉門が解けてからの討ち入りでは、大学長広様の指図で動いたとみられ、罪が大学長広様に及ぶと噂しているC一枝(亡君)より連枝(大学長広)を第一にするのは忠節ではない。

8月21日
 幕府は、高家大友近江守義孝・大目付庄田下総守安利の職務上無情を責め、その職を剥奪する。
 『徳川実紀』には「奉職無常とて共に職をうばはる」、『寛政重修諸家譜』庄田安利の項には「その職にかなはざるにより小普請に貶(へん)せらる」とある。
 その理由は、浅野本家が刃傷事件の翌日の3月15日に、田村右京大夫建顕とその本家伊達家に対して、庭先での切腹の指図は誰によるものかと問いただす。幕府は正使庄田下総守、副使多門伝八郎・大久保権左衛門を取り調べた結果、庄田に落ち度があったと判明したからである。

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