| (1701年12月23日〜12月29日) |
| 元禄14年(1701) 12月23日 |
| 吉良隠居の報が内蔵助に届く。 堀部安兵衛は、小山源五右衛門に、討ち入りに対して早く決心をするよう伝える書状を送る。 |
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| 12月25日 |
| 65両で家を購入した原惣右衛門・大高源五は江戸を発って京都へ向かう。 大石内蔵助は堀部安兵衛ら3人に「吉良が隠居したことは珍重である。春になってとくと考えたい。大工 (安兵衛らのこと)が事を急がないか心配である」という書状を送る。 大石内蔵助は堀部弥兵衛に「下手な大工はとかく事を急ぐものだ」を例えにして、討入りは慎重にとの 書状を送る。これは11月10日に安兵衛ら交わした約束を忘れたような内容になっている。 |
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| 12月27日 |
| 堀部安兵衛ら3人は潮田又之丞・中村勘助・大高源五宛に書状を送る。 その内容は次のようである。@吉良上野介が本所にいることは確かだが、4月には米沢から上杉綱憲 が出府してくる。その後の吉良の住所がどうなるかわからない。浅野大学長広様の安否までと悠長なことは言っておれないA吉良の隠居を認めたことは、幕府は片落ちの裁定を合法化したことになる。 この時の書状には高田郡兵衛の名の肩に「病気故判形仕らず候」と記される。この頃、郡兵衛の脱落 の傾向が見えてきたのであろう。 |
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| 12月29日 |
| 堀部安兵衛らは大石内蔵助宛、潮田勘助宛、原惣右衛門・大高源五宛にそれぞれ書状(「吉良上野介が隠居した。1月25日頃自分は上方へいくつもりだ。3月中に討ち入り決行話をまとめたい」)を出す。 |