(1702年1月9日〜1月14日) |
元禄15年(1702) 1月9日 |
急進派説得の原惣右衛門・大高源五が急進派に転向して、伊勢を経て山科の大石内蔵助を訪ね、吉良上野介隠居のことを報告する。 |
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1月11日 |
小山源五右衛門・進藤源四郎・岡本次郎左衛門・小野寺十内・原惣右衛門・大高源五・矢頭右衛門七(17歳)が大石内蔵助邸茶室可笑庵に集まり、現状を協議する(第一回会議)。 原・大高は「吉良上野介が隠居したからには、1日も早く仇討ちをすべきだ」と主張する。大石は「明後日、上方の同志に寄ってもらおう」と提案する。 |
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1月14日 |
山科・伏見の同志は大徳寺塔頭瑞光院の浅野内匠頭墓所に参拝し、帰途寺井玄渓宅に立ち寄り会議をする。 この席で小山源五右衛門は「江戸の岡島八十右衛門に吉良家を偵察してもらい、堀部安兵衛・奥田孫左衛門を説得するために足軽頭兼郡奉行200石吉田忠左衛門(63歳)と馬廻250石近松勘六(33歳)を江戸に派遣しよう」と提案し会議の指導権を握る。そこで大石内蔵助は吉田忠左衛門・近松勘助を呼び出す書状を書く。急進派は、慎重派の内蔵助より、小山を盟主と考えるようになる。 この頃の同志の考え方を分類すると次の三派になる。@復讐派(京都の原・中村勘らと江戸の堀部・奥田ら)A主家再興派(大石ら多数派)B主家再興・再仕官派(進藤源四郎ら)。 この夜、萱野三平(28歳)は郷里の摂津国豊島郡萱野村の自宅で自害する。その理由は、故郷で旗本大島伊勢守(父七郎左衛門の主人)が、三平に対して自分に奉公する話を進める。父の七郎左衛門も大賛成である。それに対して、孝(奉公)ならんとすれば忠ならず、忠(仇討ち)ならんとすれば孝ならずと板挟みに悩み、14日を亡君の命日にみたて殉死の形式をとって自害したのである。 |