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(1702年1月17日〜1月25日)
元禄15年(1702)
1月17日
 江戸の堀部安兵衛らに大石内蔵助の12月25日付けの書状が届く。

 大高源五は堀部安兵衛らに書状(1月14日の寺井玄渓宅の会議にふれて、「吉良上野介が隠居した今、先(開城時)の約束に見切りをつけたい。急いで事をなしたい」と言ったが、みんなの意見がまとまらない)を書く。

1月22日
 大高源五は原惣右衛門の書いた書状をもって大石内蔵助を訪問する。
 その書状は、大学長広の安否を待つことに見切りをつけるよう大石内蔵助に主張している。要点は次のようである。@大学長広様に少しでも知行が宛行われれば討ち入りの口実がなくなり、その時は我々には切腹しかない。Aそれとも安否に見切りをつけ宿意を遂げるの二点で、大石に「二つの道を選択するように」迫っている。

 堀部弥兵衛・安兵衛父子と奥田孫左衛門の連状で高田郡兵衛の脱落を大石内蔵助に知らせる。

1月23日
 堀部安兵衛は小山源五左衛門に「大石内蔵助と手を切ってなりと、ぜひとも吉良上野介討ち入りのことを決心してもらいたい。大石が承知しなくとも20人あれば吉良の首は取れる。早々下向されるように」との書状を送る。

1月25日
 吉田忠左衛門は急進派を説得するため、大石内蔵助の呼び出しに応じて播磨国美嚢郡三木町を発っ
て京へ向かう。

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