| (1702年1月26日〜1月28日) |
| 元禄15年(1702) 1月26日 |
| 堀部弥兵衛・安兵衛父子と奥田孫太夫は、大石内蔵助宛てに「木挽町(浅野大学長広)のことにこだわるのは理解できない」「もはや見合わせなさるる品これなき時節」との書状を出す。この時の書状には高田の名は消え、弥兵衛・安兵衛・奥田の連名になっている。 堀部弥兵衛・安兵衛父子と奥田孫太夫は、原惣右衛門・潮田又之丞・中村勘助・大高源五宛てに「12月15日付けの書状が1月17日に着いた。大石内蔵助の考えは理解できない」「浅野大学長広様の安否の件は12月11日にて事済み(4月まで待てない。討ち入りは3月中)候」「我々の考えに納得されたらすぐ江戸下向されよ」との書状を送る。 この26日付けの書状では「永引き申すについての色々の変化出来、老少不定常とは存じながら、我々露命あわれ恙なく罷りあり、思し召し立ち候時分、お供仕りたき志願のみにてござ候。…多少の構いなく、早く存じ立てられ候衆中これあり候わば、その方に随身仕るべき覚悟にて罷りあり候」とある。 これを読むと東の堀部安兵衛と西の原惣右衛門らは優柔不断な大石内蔵助に見切りをつけ、誰かを指導者にして東西呼応して一挙を計ろうとしている。1月23日の書状を見ると、堀部はこの指導者に小山源五右衛門を考えていたことがわかる。 |
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| 1月28日 |
| 吉田忠左衛門は、寺坂吉右衛門を連れて上洛して綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデル)宅に泊まる。山科に行き、大石内蔵助と協議する。 |
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| 1月 |
| このころ、高田郡兵衛が脱落する(最初の脱盟者)。その理由はつぎのようである。兄高田弥五兵衛は養子を断る理由として、郡兵衛の仇討ちを打ち明ける。それに対して内田三郎右衛門は「組頭の村越伊予守様に養子縁組を既に申し出ている。その養子が徒党をくんでいたことがわかると大変なことになる。幕府に訴えて出るしかない」と脅される。 しかたなく郡兵衛は堀部安兵衛・潮田孫太夫に相談して内田家を相続したのである。 |