home back next

(1702年2月3日〜2月16日)
元禄15年(1702)
2月3日
 大高源五は堀部安兵衛ら3人に書状を送る。
 内容は1月22日付けの原惣右衛門の書状にたいする大石内蔵助の反論である。@浅野大学様に知行を与えられるということと宿意を果たすということは別であるA吉良上野介の隠居とは関係なく大学様の安否を見届けた上での考えを続けたいというものである。大石の反論を紹介した上で、原が大高に申し入れた「長広の安否に見切りをつけ、宿意を遂げる一辺倒でいく」という意見を紹介している。

 これは堀部安兵衛・潮田又之丞・原・大高らが大石を離れ、同一方向で進むことを決意したものといえる。

2月11日
 大高源五の2月3日付けの書状が堀部安兵衛に届く。この時の堀部の心境は「上方の衆は残らず大石内蔵助の意見になびいている。こちらの意を伝えても同意が得られない。6、7人では討ち入りは困難である。待ちにくきを待つのも一つの勇気である」というものである。

2月15日
 大石内蔵助は、東西呼応した討ち入りの計画があることを知り、近畿の同志と山科に会合する(第二回会議、又は山科会議)。
 参加は、内蔵助のほか、原惣右衛門・大高源五・小山源五右衛門・進藤源四郎・岡本次郎左衛門・小野寺十内である。
 そこで一同は、浅野大学様の処分を待って3月の復讐を起こすことを大石内蔵助との協議によって延期することを指導される。つまり、内蔵助の意向に従うことを決議する。

 大石は内蔵助は、「時期はゆっくり待つが、討ち入りは必ず決行する」という起請文を書いて吉田忠左衛門に渡す。

2月16日
 大石内蔵助は堀部安兵衛に1月22日付け書状の返書を書く。内容は「(高田郡兵衛の)相談(脱落)がもれないようにすること専一」「15日の会議の結果について、吉良上野介討ち取りをすぐ実行する者は1人もいない。浅野大学長広様の閉門が解かれれば、自分も江戸下向をする。中途にて事を起こさないよう戒める」というものである。この書状は吉田忠左衛門にことづける。

home back next