| (1702年2月18日〜2月末) |
| 元禄15年(1702) 2月18日 |
| 武林唯七・不破数右衛門は江戸を発って上方へ向かう。 |
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| 2月20日 |
| 吉田忠左衛門の出府により、京都・綿屋善右衛門邸にて貝賀・小野寺・小山・原などを送別する宴を催す。 |
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| 2月21日 |
| 大石内蔵助は、次のような書状を吉田忠左衛門と近松勘六にことづけ、京洛派の同志の意見を伝えさせる。 原惣右衛門・大高源五・潮田又之丞・中村勘助の4人は、堀部安兵衛・奥田孫左衛門宛に連状(「其元(堀部ら)にて申し合わせ候趣を以って(大石内蔵助に)申し談じ候」「山科会議の結果については、大石の存念(安否まで待つ)に従う」「我々と大石との所存は時期が違うだけである」)を書く。 吉田忠左衛門・近松勘六は山科会議の決議を江戸の同志に伝え、江戸急進派を説得するため、京都を発って江戸へ向かう。寺坂吉右衛門が同行する。 |
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| 2月24日 |
| 吉田忠左衛門・近松勘助は、江戸に下る途中に伊勢神宮に参拝し、大望を祈願する。 |
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| 2月 |
| このころ、原惣右衛門は別行動を考える。 |