| (1702年3月1日〜3月下旬) |
| 元禄15年(1702) 3月1日 |
| 2月28日に江戸を出た急進派の武林唯七・不破数右衛門は、大坂の原惣右衛門を訪ね、「山科会議は納得できない。群を離れて事を起こそう」と持ちかける。。原は本心を武林唯七(31歳)の様な若い衆に伝えると漏れやすいと思い、「自分も別のやり方を考えている」とだけ話す。 |
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| 3月4日 |
| 急進派の武林唯七は、京都の大石内蔵助に会い、山科会議について尋ねる。武林は、大高源五・中村勘助も大石に従っていたことを知る。 そこで武林は大高に会うこともないと言ったが、不破数右衛門になだめられて大高に会う。武林は大高 に会うや、「腰抜けめ」とののしる。大高は「大石殿の覚悟は確かだ」と言ったが、武林は涙をこぼして立 腹し、聞き入れず喧嘩わかれする。 |
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| 3月5日 |
| 吉田忠左衛門・近松勘六は、江戸に到着し、芝松本町の前川忠太夫方に宿泊する。以後、吉田が江戸のまとめ役となり、江戸の急進派の説得を行う。 吉田忠左衛門は原惣右衛門・大高源五の連状(2月21日付け)を堀部安兵衛に届ける。しかし待ちにくきを待つ心境になった堀部を勇気づけるものにはならず。 |
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| 3月8日 |
| 内蔵助の命を受けている吉田忠左衛門・近松勘助は、堀部安兵衛・奥田孫左衛門に面会して、上方の意向を伝えて急進派の説得にあたる。安兵衛は「上方のご一同が決議したのであれば、仕方がない」と納得する。 |
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| 3月10日 |
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| 内蔵助は、原惣右衛門に対して江戸への出向の注意指令を下す。 |
| 3月13日 |
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| 水間治部左衛門正藤は、山科にて自決する。 |
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| 3月14日 |
| 大石内蔵助は赤穂花岳寺で浅野内匠頭の一周忌の法要を執り行う。赤穂城下の人々が長い列を作って参列する。 京都では同志が大徳寺塔頭瑞光院に参詣する。帰途、二条柳の馬場の町医者寺井玄渓宅に寄り、1月14日に決めた岡島八十右衛門の代理に足軽徒士目付5両3人扶持神崎与五郎(37歳)を送ることを決定する。岡島は去年8月から病気が回復せず。 |
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| 3月下旬 |
| 大石内蔵助は前原伊助と共に吉良家を偵察するために、神崎与五郎を江戸に派遣する。 |