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先土器文化(岩宿発見物語) | |||||||||||||||||||||||||||
1 | 相沢忠洋さんは行商をしてあちこち旅をしていました。大雨の翌日切通しを通っていると、昨日見なかった長菱形の石が土の中から顔を出していました。引き抜くと、人間が作った石器のようでした。そこは岩宿という所で、土質は関東ローム層で出来ていました。 | ||||||||||||||||||||||||||
2 | 東京大学に持って行きました。教授連は石器である鑑定しました。しかし、場所を聞いてからは、相沢青年の話をまともに取り上げませんでした。当時の考古学の常識では「火山灰が降り注ぐ洪積世の時代には食べ物も育たない。だから人間も生きられない」と考えられていました。ですから、火山灰で出来た関東ローム層には人間がいるはずがなく、その地層に到達すると発掘を打ち切っていました。 | ||||||||||||||||||||||||||
3 | 自然に露出した感触をもつ相沢青年は引き下がれず、明治大学考古学研究室を行きました。関東ローム層から出たということで、最初は信用されませんでしたが、相沢さんの必死の訴えで、若き研究者が現地へ赴きました。専門の学者が旧石器時代前期の打製石器と確定しました。 相沢青年が行った致命的なミスは検証することもなく、簡単に石器を土層から抜いていしまったことです。 | ||||||||||||||||||||||||||
4 |
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権威や権力に対抗するには地道な努力と科学的な物証が必要 | |||||||||||||||||||||||||||
1 | 当時学会の定説は官立大学の教授たちが認めたことが定説で、私大の発表は定説にならないという二重に不利な状況が、明治大学の若い研究者にはありました。それを跳ね返すには地道な努力と実証以外ありません。彼らの頑張りの結果、全国的にも洪積世の地層からも多くの石器発見されました。 |