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エピソード

005_01

弥生文化の成立(弥生土器は焚き火で出来るか)
 私の小学生の頃の話である。農閑期の冬に、私の家の田んぼのど真ん中に、高く太い電柱が立ちました。今ならとても許されない場所です、当時は”皆のために”と言う「お上」の一言で、私の父親が許可をしたのです。
 掘り起こした土が層によって色々な色になっていました。面白いのでその土で色々と遊んでいました。飽きた頃に焚き火をしていたら、父親に怒られました。灰を片付けていると、灰の下の土が固く変化していました。土層のねずみ色の粘り気のある部分が一番固くなっていました。
子供は手を使った遊びの中から学ぶもの(知恵)
 それにヒントを得て、父親に隠れて、粘り気のある土を水で煉って簡単なお茶碗をつくり、焚き火に入れると、土器が出来上がりました。使えるかと、水を入れてみると、じゃじゃ漏れでした。
 ある時、1週間ほど前の作りさしのお茶碗もついでに入れると、この不完全なお茶碗が水も漏らさぬ「いい茶碗」になったのです。粘土は乾燥させることでひび割れを防ぐことがわかりました。
 縄文時代人が最初土器を作ったきっかけもこんな風ではなかったでしょうか。焚き火は約800度の焼成熱が出ます。移動中心の縄文時代人には、これ以上の温度を出す技術は難しかったかもしれません。
 弥生の土器作りに何度も挑戦しましたが、失敗しました。火を逃がさないように、トンネル様の物を作りましたが、駄目でした。弥生の土器は焼成熱が1200度といいます。1200度出すにはのぼり窯が必要だそうです。
時期(世紀) 土器の文様 遺跡 @壷(貯蔵用)
A甑(煮沸用)
B高坏(供膳用)
米を壷に貯蔵し、
甑に水を入れ、
蒸して高坏に盛る
前期 前3〜前1 へらの浪形 福岡の板付、佐賀の菜畑、青森の砂沢
中期 前1〜後1 櫛目 福岡の須玖、青森の垂柳(田舎館)
後期 後1〜後3 無紋 静岡の登呂・山木、東京の弥生町
前期〜後期 前3〜後3   佐賀の吉野ケ里、奈良の登呂・鍵
稲作が専門家を育成、のぼり窯で弥生土器完成
 稲を栽培するために移動式をやめました。縄文時代人は1人で1人を養う自給自足の時代です。搾取という発想は出てきません。米は1人で2人(又はそれ以上)を養う栽培の時代です。1人が米を作り、残りの1人が弓矢を作って狩猟に行ったり、土器を作ったりする、分業の時代が来ました。専門家の誕生です。搾取するという「ずるい思想」(賢い思想?)も発生しました。

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